「ところで、乙姫様っていうのは、最終的に若い男をじい様に変えてしまって、どう思ったんだろうねえ」
若い孫は、包丁を布巾でぬぐいながら、しばらくきょとんとしていた。それから、つるつるした顎に手をやってちょっと考える風にして答えた。
「乙姫様って、浦島太郎のですね? あの話、僕も意味分かんなくって。とにかく玉手箱は酷いと思いますよ。決して開けてはいけませんって、じゃあなんで渡すんだよ、って思います」
「確かに、若さを奪ったのはひどいよな。うーん、でも、好きで奪ったんじゃないのかもしれない。時間というのは本人の所有物であって、乙姫ですら、太郎本人から切り離してしまうことはできなかったんじゃないだろうか。だから、せめて、玉手箱に封じて渡したんだ。永遠を生きる海のお姫様が、人間と同じ時間を過ごすためには、きっとそういう調整が必要なんだよ」
「やけに、乙姫様を庇うんですね」
ユウさんの孫が笑いながら相槌を打つ。なかなかうまい相槌だ、ユウさんと同じで客商売のセンスがあるなあ、とケンジさんの顔がほころぶ。
「うん、乙姫は、若い男をじい様にしちゃって、反省したんじゃないかなあってね」
いい気分に酔っぱらってきたところで、ケンジさんは、ふっと、ある可能性に気が付いた。
そうだ、本当に反省したのかもしれない。その証拠に、俺を見ろ。元から十分にじじいだから、大した害もない。
そう考えると、おかしくなって笑ってしまった。
乙姫様も考えたもんだ。
ユウさんの孫が、サービスで熱燗をもう一本つけてくれた。他の客たちはオリンピックの映像を見ながら、賑やかに歓談している。眺めていると、自分が一人で死後の世界に迷い込んでいるような気がしてきた。
ケンジさんは、店に来たときの女の様子をもう一度思い出してみた。彼女は、本当に申し訳なさそうにしてた。それから、今思えば、はしゃいでいるように見えた。珈琲を飲むのも、レコードを聴くのも、もしかすると初めてだったのかもしれない。