小説

『彼女のcoffee time』山下みゆき(『浦島太郎』)

「東京五輪なのか、嘘だろう?」
 今朝まで、いや、店のドアを開けるまでは、確かに2015年の2月だった。それが、知らぬ間に5年半も経過していたことになる。
 少し落ち着こうと、側にあった自動販売機で、冷たい緑茶を買った。緑茶の味はどこもおかしくはなかったが、値段が30円ほど上がっていた。新聞を買ったときのレシートを見ると、消費税10%と記されている。小さく印刷されている日付はやはり、2020年7月24日だ。

 ケンジさんには、思い当たることがあった。つい先刻、不思議な女の一人客が来たのだ。彼女が店に入ると同時に、ラジオが、ガーガーとおかしな音を立て始めたので、ケンジさんはスイッチを切った。
「きっと、ご迷惑をかけることになります」
 その女は申し訳なさそうに言った。髪が長くうつむいていたから、顔はよく見えなかった。顔を伏せたまま一つの窓を指さして、「いつも、あの窓から見ていました」と言うのだが、そこから見えるのは海だけだった。
 それから、女は、レコードが聴きたい、と言った。店には、たくさんのレコードがある。ケンジさんの自慢のコレクションなのだが、一人で聴くのはもったいない気がして、最近はもっぱらラジオばかり流していた。
 お勧めのレコードはどれかと尋ねられて、ケンジさんは古いピアノのジャズ曲を選んでかけた。女はその曲を聴き、ケンジさんのいれた熱い珈琲を飲んだ。
 レコードが終わると、はっと我に返ったように立ち上がり、酷く錆びた硬貨で支払いを済ませて、まるで逃げるように出て行った。ほんの30分と少し、珈琲一杯分の時間だった。
「信じられないが、時間がぶっ飛んでいる。まさか、これが『ご迷惑』ということなのか?」
 急に、駅裏のアパートにある自室のことが気になってきた。
「今朝出てきたままで、5年半も放置してることになってるんじゃ……」
 ケンジさんは、うだるような暑さの中を、悲壮な表情を浮かべて自宅に向かった。店の表に出していた自転車は錆びつきタイヤが劣化して駄目になっていたから、歩くしかなかった。足がひどく痛んだ。途中、駅前の建設中だった歩道橋が完成していた。いつも夕食のおかずを買っていた商店街の総菜屋はそのままだったが、店の主人には、幽霊を見るような目で見られた。
 

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10