小説

『彼女のcoffee time』山下みゆき(『浦島太郎』)

 汗だくで、アパートのあるはずの場所の前に辿りつくと、そこには、「エロエロベロンチョ❤」という看板がかかったピンク色のビルが建っていた。
 足だけでなく、頭も痛くなってきた。一休みしたいが、休むべきその部屋がない。
 アパートの大家は、前々から「こんなボロアパート潰して、もっと儲かる商売を始めたい」と言っていた。大家はケンジさんよりも10歳ほど若い男で、部屋を借りたのは喫茶店の開店と同じ時期だったから、やはり40年以上の付き合いがある。
 すぐそばの大家の家を訪ねた。大きな庭のついた一戸建てだ。呼び鈴を押すと、きれいに剥げあがった赤ら顔の大家が、驚きつつ、迷惑そうな顔をして出てきた。
「あんた、生きてたの?」
「俺の部屋どうなったんですか、家具は? 貴重品入れてた金庫は?」
 大家は、豪華な応接間に通してくれた。しばらく奥に引っ込んでいたが、すぐに、ケンジさんの金庫をもって出てきた。
「泥棒みたいに言わないでよ、急にいなくなるのが悪いんだからね。保証人になってた御両親なんてもう、とっくに亡くなってたし、それに、あんたってほんとに天涯孤独だったんだね。誰にも連絡が付かないんだから。急に消えちゃって、かれこれ、5年でしょう。新しい商売は始めたいし、悪いけど勝手に部屋は始末させてもらったのよ」
 大家の目の前で、金庫の番号を合わせて開けてみた。店の土地の証書。通帳、印鑑、アパートの賃貸契約書。一通り入っていたままだった。だが、大家は、目をきょろきょろさせて動揺している。
「もしかして……、部屋もないのに、家賃の振込みだけが今も自動で続いてるんじゃないですか?」
「実はそうなのよ~、ごめんね。せっかく振り込んでくれてるんだから、もらっとかなきゃ悪いかと思ってさあ。でも、ちゃんと返金するから。処分した家財道具代も買い直せるように色付けてあげるし、ゆるしてよ。でも、こっちだって大迷惑だったのよ。鍵開けて入ってみたらさ、炊飯器の中にご飯入ったままなんだもん。ピンクやら黄色やら水色やら黴がわさわさ生えてたの、あたしが捨てたんだよ? ほんとにどこに行ってたのよ」
 

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