小説

『彼女のcoffee time』山下みゆき(『浦島太郎』)

 その小さな喫茶店は、海を見渡せる岬の上にあった。店主のケンジさんは、そこでかれこれ40年も珈琲をいれ続けていた。
 事が起きたのは、氷が張るほど冷え込む2月の初めのことだ。
 ケンジさんは、暖かくした店の中で、いつものように一日営業していた。使い込んだ石油ストーブの上で薬缶がしゅんしゅんと音を立てていた。時計の針は17時を回ったところで、いつもならば、もう外は暗くなっているはずだった。
 だが、窓の向うが明るいのだ。明るいどころではなく、眩しく光っている。おまけに、ストーブの火力が強すぎるのか、やけに暑い。
 ケンジさんは、セーターを脱ぎながら、入口のドアに近づき、ぐっと押した。ドアは奇妙に重かった。力を込めて押し直すと、身体の中が一瞬沸騰でもしたかのような、気味の悪い感覚に襲われた。
倒れこむようにして表に出ると、空は抜けるように青く、シーシーと盛大に蝉の鳴き声がしていた。世界が突然、真夏の昼間に変わっていたのだ。
 にわかには信じ難く、ケンジさんは、今出てきたばかりの穴のように暗い店の中を覗いた。石油ストーブが赤々と燃え、脱いだセーターがレジにかかっていた。
「お~い」
 思わず掠れた声で呼びかけた。だが、店の中にいたのは元々ケンジさん一人だった。助けを求めたところで、返事する者など誰もいない。
 セーターは脱いだものの、ネル生地の長袖シャツが暑くてたまらない。たちまち汗が噴き出してきた。ボタンを全部外し、腕まくりしつつ、岬の下の国道沿いのコンビニに飛び込むと、いつもの愛想のいいアルバイト店員がいなくなっていた。
 代わりにエアコンの効いた涼しい店内で、見知らぬ店員が、息を切らしたケンジさんを冷やかな目で見ていた。
 新聞を一つ買い、店の前でばさばさと開くと、いきなり大きな五輪マークが飛び込んできた。国旗や選手たちの写真で賑やかな新聞は、いつもより分厚く、一面の大見出しには「祝・開会式」の文字があった。日付は2020年7月24日金曜日となっている。
 

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