小説

『かぐや姫へ、愛を込めて』メガネ(『かぐや姫』)

「あっ――」
 賢治が声を上げると同時に、美月は鞄をさかさまにした。中から何冊もの本が音を立てて落ちる。全て図書館で借りて来たらしい、偏微分と重積分に関する本だった。
「ごめんなさい、お母さん……お父さん、ごめんなさい」
 戸惑いの目を交互に向ける母の横で、賢治は呆けたように美月を見つめている。
 たっぷりと時間をかけて、一粒、その目から涙がこぼれた。

***

 結婚式は、今がたけなわだった。Aラインのウェディングドレスに身を包んだ美月が、両親への感謝の手紙を読み上げている。テーブルから高砂席を見つめる、黒い留め袖に身を包んだ母親は、目に当てたハンカチを手放せずにいた。花嫁が一通りの感謝を述べ終え、皆が拍手をしようと手を上げる。
 そのときだった。
「――皆様も既に知っていることだと思いますが」
 決心したように、手紙から目を上げて美月が切り出した。
「……父と私は、血がつながっていません」
 親しい者や親族には周知の事実だ。とはいえ固い表情になった新婦を見て、戸惑いの雰囲気が会場に漂う。
「私が十五のとき、父はやってきました。私は、嫌だった。こんなの自分の父親じゃないって……熊みたいに大きい身体も、身体に似合わない性格も、オヤジギャグも、着てる服だって。何から何まで気にいらなくて、だから……虐めました。母の見ているところでやると怒られるから、母の目のないところで……まるでシンデレラの継母みたいに、父に辛く当たりました」
 家族席の賢治が、口を一文字に結んで娘を見ていた。かすかに首を振る姿は、自ら傷つこうとする娘を心配するかのようにも見える。
「ひどい言葉はもちろん、無理難題を押し付けたりしました。痩せろと言ったり、宿題を代わりにやれと言ったり……生意気な命令に、父は笑顔で応えてくれました。好きなご飯もお菓子も止めて、朝は四十分も早く家を出てウォーキングして、私の宿題のために仕事が終わってから勉強して……。母に知られれば私が怒られるからと、父は黙って耐えました。母に浮気の疑いをかけられたときも、黙って母に謝り続けたんです。自分を虐めた私を守るために」
 つややかにメイクされた頬には、既に幾筋もの涙の道がある。けれど今流れているのは、感動からのものではない。悔恨の涙だ。
「お父さん。私が友達のお父さんみたいになれと言ったとき、どうしてあなたは嫌な顔一つしなかったんですか? 私は……私は、友達ほど良い娘じゃなかったのに」
 我慢できずに賢治が立ち上がった。涙に濡れた娘に向かって、マイクも持たず声を上げる。
 

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