小説

『かぐや姫へ、愛を込めて』メガネ(『かぐや姫』)

「夕飯の問題じゃないでしょ。何をすれば五時に退社して帰宅が八時半になるのかって訊いてるの。なのにどうして私に言えないの? 妻に言えないことをしてたって、つまりはそういうことでしょう!」
 バンと叩きつけるような音がして、それきり賢治が押し黙る。家具屋の社長である母が机を叩くなど、普段ならあり得ないことだった。
 腹に溜まった冷たい水が、体中を駆け巡る。爪の先まで凍りつきそうだった。喘ぐように口を開くが、顎が微かに震えている。
 気が強い母ではあるが、元夫の浮気は相当に堪えていたことを、美月は知っていた。母の涙も、そのときに初めて見た。だから美月は、母にとって浮気というものがどれだけ忌まわしいものであるかを痛感している。彼女の大好きな美しい母を傷つけ、トラウマを植え付けた『浮気』。この先ずっと、わが身を張ってでも母から遠ざけておこうと誓った。
 ……はずなのに。
 意を決してドアを開ける。熊のような巨体が背中を丸め、胎児のように縮こまって土下座していた。その前に立ちはだかる母は、整った顔立ちのせいか鬼気迫る怖さがある。
「……美月はあっち行ってなさい」
 凍りついた表情を口元だけ溶かして、母がぎこちなく告げる。美月が実父を失ったあの日が、ここに蘇っていた。ただ一つ違うのは、父親が投げやりに怒鳴り返すことなく、ひたすら謝り続けているところだろうか。
「……ごめんなさい」
 口が渇いてろれつの回らないまま、美月は声を絞り出す。スカートを握りしめた手に涙が落ちた。
「ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい……」
 涙があふれるように、謝罪の言葉が止まらない。くずおれるように膝をつく娘に、母は心の氷を解いた。慌てて彼女の肩を抱き、焦った様子で顔を覗き込む。
「美月、どうしたの? ね、美月、大丈夫よ、お母さん怒ってないから。ねえ泣かないで、大丈夫よ……」
 反抗期を迎えた娘の、幼子のような泣き声に、賢治も身体を起こして目を丸めた。するとその大きな腹の下から、彼の通勤鞄が現れる。
 美月は母の手を振りほどき、賢治に這い寄った。涙で顔を濡らしたまま、その鞄を引き寄せる。
 

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