その日、自宅に帰ると、父が入所している静光苑の職員から、電話にメッセージが入っていた。
――お父さまが息子さんに会いたがっています。できたら、近いうちに都合をつけて、いらして頂けませんか?
翌日、私は静光苑へ行った。父に会うのは1か月ぶりだった。
「やあ、聡志、遅かったじゃないか」
「ごめん、ごめん」
父は、思ったよりも元気そうだった。
ここへはできるだけ来るようにしてはいたが、仕事の忙しさにかまけて、つい足が遠のいてしまうのだった。それに最近は、この面会室で父と向かいあっているのがつらかった。
「どうだ、学校は楽しいか?」
「ああ、友だちもたくさんいるし、楽しくやっているよ」
「そうか、それは何よりだな。そういえば、おまえ、掛け算九九はできるようになったか?このまえ父さんが教えてやっただろう」
「ああ、できるようになったさ」
「そうか、じゃあ、ここで父さんに聞かせてくれ」
「…………」
父の中では、私は8歳の子どものままで時間が止まっているようだった。父は、まだ、自分で歩くことができるし、食事をすることもできる。それに、トイレも自分で行くことができる。聡志という私の名前も憶えている。だが、私と会うときの父は、遠い過去の記憶の中にいた。
あのころ、私たち一家は、都内の大きな団地に住んでいた。
商社に勤めていた父は、出張で海外に行くことが多く、1年の半分くらいは家を離れていた。だから、家にいるときの父は、私たち家族のために尽くすことに、すべてを傾けていたのである。
――さあ、きょうは焼き肉をやるぞ。聡志も陽子も友だちを呼べ。みんなで焼肉パーティーだ。
長期の出張から帰ってきた父に言われ、私と妹は、団地内に住む学校の同級生で仲のいい数人を誘った。父は、自分で商店街の肉屋に出かけていき、子どもに食べさせるには勿体ないような上質の牛肉をたっぷり買ってきて、それを野菜といっしょに皿に盛り、テーブルの上に並べていった。その様子に目を丸くしている友人たちを眺めながら、私は、父のことを誇らしく思ったものだ。