小説

『幻影団地』実川栄一郎(『むじな』『のっぺらぼう』)

「そう、私も子どもの声を聞きましたよ」
「あなたも?」と、私は言った。
「ええ、あれは昨年の暮れでした。以前勤めていた会社の同僚たちと忘年会があって、それが11時くらいに終わって、ここに帰ってきたのが12時まえでした。うちは5号棟の408号室なんですが、4階の通路を歩いて412号室の前を通ると、通路に面した台所の窓から灯りが洩れているんです。空き室のはずの412号室に灯りがついているなんて変だな、と思って、台所の窓ガラスに耳を近づけて様子を窺ったんです。すると、女の子がキャッキャッ騒ぐ声と、それをたしなめるような女性の声が聞こえてきて、そのあとに男性の声も聞こえました」
「あんた、忘年会の帰りなら、ずいぶん酔っぱらっていたんだろ? 酔っぱらって、隣の部屋の話し声を聞いていたんじゃないの?」と、自治会長が男性をからかうように言うと、男性はむきになった。
「そんなことはない。だいいち、5号棟には子どものいる家族なんて住んでいない。そんなことは、あんたがいちばんよく知っているじゃないか」
 私は、空き室の話し声を聞いたという2人の住人に尋ねた。
「おふたりは、人の、いや幽霊らしきものの声を聞いたということですが、姿は見なかったのですか?」
 2人は、黙って首を横に振った。
 すると、もう1人の女性が、「ああ、それなら、私、見ました」と言った。
「夜遅く、2号棟の傍の道路を歩いていると、105号室のドアの前に女の人がぼんやりと立っているんです。誰も住んでいない部屋の前で何をしているのかしら、と思って、しばらく様子を窺っていると、玄関のドアが静かに開いて、引き込まれるように、その人が中に入っていったんです」
 そこまで言って、女性は急に声をひそめた。
「私、そのとき確かに見たんです……」
「何をですか?」
「その女の人の顔です」
「顔?」
「ええ、その人が部屋に入るとき、ふと、こちらの方を振りむいて、ちらっと顔が見えたんです。それが、街灯の光に照らされて、その顔が……、まるい白い顔が、てかてかと光っていたんです」
「…………」
「つるんとしていて、目も鼻も口もないんです」
「…………」
「私、もう怖くて、それからは2号棟の近くは通らないようにしているんですよ」
 

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