小説

『幻影団地』実川栄一郎(『むじな』『のっぺらぼう』)

 3号棟の前に着くと、私は、怪しい話し声が聞こえたという202号室を下から見あげた。だが、べつだん変わった様子はなかった。階段で2階に上がり部屋の前に立ってみたが、何も聞こえなかった。
 そう運よく幽霊に遭遇できるはずもないのだ。そう思って部屋の前から離れようとした、そのときだった。通路に面した台所の窓が、ほのかに明るくなった。
 まさか、そんなことが……。中に誰かいるのか?
 私は、思わずドアのノブに手をかけた。意外にもノブは何の抵抗もなく回り、ドアが開いた。私は、部屋の中に体をすべり込ませた。その瞬間、私の体は室内の温かい空気に包まれた。
――あら、聡志、お帰り。ずいぶん遅かったじゃない。学校の帰りにどこで寄り道していたの?
――中原君の家で子犬を飼っているから、見に行っていたんだよ。
 台所から玄関に出てきた母の問いに、私はごく自然に答えていた。
――あまり遅くまでお邪魔しちゃ、中原君のお宅に迷惑でしょ。もっとはやく帰るようにしなさい。さあ、きょうはパパが出張から帰ってくるのよ。
――あっ、そうだったね。じゃあご馳走だね。
――ねえ、今晩のおかず、何だと思う?
 母の後ろから顔をのぞかせた妹が私に聞いた。私は、台所から漂ってくるいい匂いに気づいた。
――うーん、この匂いはハンバーグかな?
――残念でした。ビーフシチューでーす。
――さあ、2人ともはやく宿題を終わらせなさい。もうすぐパパが帰ってくるわよ。
 母の声は弾んでいた。
いま私の前にいる母は、まぎれもなく30年以上もまえの、あのころの母で、妹も、まだ小学1年生の、あのころの妹だった。そして、私も……。
私は思わず、台所で料理をつづける母に甘えるように言った。
――ねえ、ママ、あしたの朝はベーコンエッグ作ってよ。
――ええ、いいわよ。でもどうしたの、聡志。まだ今晩の夕ごはんも終わっていないのに、あしたの朝ごはんのことなんか……。
――…………。
――へんな子ね。さあ、はやく宿題を終わらせなさい。
 やがて父が帰ってきた。父は、黒いウールのコートを着て、微かに整髪料の香りをさせていた。大きな手で私と妹の頭を撫でながら、父は言った。
 

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