小説

『幻影団地』実川栄一郎(『むじな』『のっぺらぼう』)

 私の朝食はいつも決まっている。バターとジャムをたっぷりと塗った厚切りのトーストに、トマトジュースとベーコンエッグ。
 私は、子どものころから、母が作ってくれるベーコンエッグが好きだった。少し焦げるくらいに焼いたベーコンの香ばしい匂いと、フライパンに生卵を落としたときのジューという音が、たまらなく食欲をそそるのだ。だから、大人になって独り暮らしをはじめたときも、ベーコンエッグだけは毎朝欠かさずに作っていたし、結婚してからも作ってもらっていた。そして、いまは、また自分で作っている。
 テレビを見ながら、ゆっくりと時間をかけて朝食をとった。テレビは、朝起きたときからつけっぱなしになっている。べつに見たい番組があるわけではないが、何か音がないと落ちつかないのである。
 自宅のマンションは、結婚したときに新居として購入したものだが、家族向けに設計されている3LDKの間取りは、いまの私の生活には広すぎ、少々持てあまし気味だった。いっそ売りはらって、賃貸マンションに引っ越そうかとも思うが、そのための手続がめんどうだった。
 妻とは3年ほどまえに離婚した。出版社を辞めて独立したばかりのころ、割に合わない仕事をいくつも掛け持ちし、家には週に1日か2日だけ帰る生活がつづいていた。そんなある日、「別れてくれ」と、いきなり言われたのだ。「好きな人ができた」というのが理由だった。それまで妻の変化に気づきもしなかった自分の怠慢を思うと、特に腹も立たなかった。
 独り暮らしは気楽だが、いつも根無し草のようにふわふわ浮遊している感覚があった。それは、自分がいったいどんなところに行きつくのか判らない、漠然とした不安でもあった。ときどき訪ねてくる女もいて、いままで寂しいと感じたことはないが、その女との束の間の時間だけでは、満たされないものがあった。だが、その満たされないものが何なのか、自分でもよく判らなかった。

 訪れたその団地は、東京のベッドタウンとして発展したM市にあった。
 私は、団地の周辺環境も知りたかったので、電車で行くことにした。最寄り駅の改札を出ると、駅前にロータリーがあり、その先が商店街になっていた。
 商店街は静かだった。道路を行く人の姿は疎らで、歩きながら店の中を覗いても、客の姿は見あたらなかった。しばらく行くとスーパーマーケットがあったが、ここもあまり客は入っていないようだった。平日の昼過ぎだから、買い物客が溢れているはずもないが、大きな団地をすぐ近くに控えた商店街にしては、あまりに閑散としていた。
 

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