小説

『罪深い作家たち』楠本龍一(『不思議の国のアリス』)

「ねえ。きっと大丈夫よ。そんなに準備したんだもの」男のあまりの悲壮感に、思わず元気づけようと声をかけた。「何の審査だか分からないけど、きっと大丈夫。」
「靴……靴はちゃんと光ってるかな」男が素っ頓狂な声で聞いてきた。
「ええ、ええ光ってるわ。ちょっとクリームが付き過ぎかもしれないけど……でも大丈夫。クリームが少ないよりはずっとマシだわ。えーとそれはつまり……あなたがこの審査のために十分労力をかけたってことだから、むしろクリームが多すぎてギトついてるくらいの靴のほうがいいってことよ」
「よかった。それじゃあ」ドクトル・アプサントはこちらを振り返らずにそう言って扉を開け、奥に入って行った。私は男の背中越しに扉の向こうを盗み見ようとしたのだけれど、ドクトルがほんの細く扉を開けてその隙間から滑り込むようにして入って行ってしまったので、残念ながら扉の奥を見ることはできなかった。残念。終わりのないホールを歩き続けるよりも、扉の向こうに入るほうが、このよくわからない場所から出るのに何かヒントがありそうだったのに。それにしてもあの扉の向こうには誰か人が居るってことだわ。だってドクトル・アプサントを呼んだあの声の主はあの扉の向こうに居るのだし、今あの扉の向こうではドクトルの審査をしているんだもの。本当のところを言うと、今すぐ扉を開けて私も向こうに入って行って、このホールから抜ける方法を聞きたいのだけど。ドクトルは審査に対して並々ならない気持ちを持って挑んでいるみたいだから、仕方ない。審査の邪魔をすることは遠慮してあげて、しばらく椅子に座っていることにしようかな。下手な邪魔の仕方をして恨まれても嫌だし。私はそう考えて、元の椅子に座り直した。審査って一体どれくらいかかるのかしら、長くかかったら嫌だなあ。でもそんな心配は無用だった。本当にすぐ、私が座るか座らないかという時には、肩をがっくりと落としたドクトル・アプサントが、扉からふらふらと出てきたのだ。
「どうしたの? 何か忘れ物? 」
と私が聞くと、力なく首を横に振って
「またもやだめだったんだ」
とドクトルは答える。
 

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