小説

『罪深い作家たち』楠本龍一(『不思議の国のアリス』)

私はただ「アリス」について書こうとしただけだった。でも今はそうしようとしたことを後悔している。
「こういうことになれば、誰だって後悔するに決まってるわ」
そう呟いた私の声は異様に細長いホールに吸い込まれて消えた。右を見ても左を見てもホールはどこまでも続いて、先の方は針の先のように小さく暗くなってどうなっているのか分からない。溜息をついてもう一度右を見ると、いつの間にか私の隣に椅子が一脚あり、燕尾服を着た男が座っていた。突然現れたその男は神経質そうに帽子の角度を直したり、胸ポケットから覗くハンケチの皴を、しきりに両手の親指と人差し指でつまんで伸ばそうとしたりしていたが、私の視線に気づくと話しかけてきた。
「君も審査に来たのかい」
ひどく不安そうでオドオドした目を私に向けている。
「いいえ。審査になんか来ていないわ」無論、その審査ってのがなんなのかこれっぽっちも分からないけれど、と私は考えた。それでも私が審査に来ていないことは確かだわ。
「ただ図書室で書き物をしようとしてただけ。次の瞬間には」私は床を指さした。次の瞬間にはこの際限なく続くホールに立っていたのだ。
「それじゃあやっぱり審査に来たんじゃないか」
男はブラシを取り出して燕尾服を払い始めた。
「何を言ってるのか分からないわ。あなたここの人なのかしら? だったら帰り方を教えてほしいんだけど」
「座ったらどうかね」
男が燕尾服についているらしい埃と格闘しながら言った。
「座る必要なんてないわよ。早く帰りたいんだもの。それにあなたは自分だけ肘掛け椅子に座っていらっしゃるけど、私には椅子もないの。見て分からない? 」
話のかみ合わない男にアピールしようと両手を広げる。
「椅子なら」
男が靴磨き・クリームのチューブを内ポケットから引っ張り出して革靴に絞り出しながら言った。座ったまま身をかがめるので声が少し苦しそうだ。
「そこにある」
 

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