小説

『罪深い作家たち』楠本龍一(『不思議の国のアリス』)

その瞬間、私は自分の足元に肘掛け椅子がいつの間にか置かれていることに気が付いた。座面はクッションになっている。古ぼけて色が擦り切れているが花が沢山刺繍されているのが分かった。男に視線を戻したが、話は済んだとばかりに靴を磨くのに一生懸命になっていて、私のことはまるで眼中にないよう。とにかく座るしかないみたいね。この男と話さなければ帰る方法のヒントも何もないもの。他に人はいないんだから。肘掛け椅子に腰を下ろして脚を伸ばす。そういえばさっきからホールを歩き通しで少し脚が痛くなってきていたんだった。男は相変わらず前かがみになって靴をごしごし磨き続けている。壁に等間隔に取り付けられている古いランプが、弱弱しい光を投げかけるホールには日の光が全く入ってきていないようで、薄暗くて空気も淀んでいる。ここ、換気はどうしてるのかしら。
「ねえ、どうしてそんなに身だしなみが気になるの? 」
男と並んで座っていても、一向に何も変わらないので私は熱心に靴に取りかかっている男の背中に向けて聞いた。
「やるだけのことはやったんだ」男は、ぴたりと靴磨きをやめて起き上がった。「だけど、なにが審査に影響するか分からない。だから身なりもきちんとしておかないと、審査官の心証を損ねたら大変だからね」
「その審査っていうのは、何の審査なの? さっきから全然分からないわ」
質問に対して男が何か言いかけたけど、その時、私達が座っている正面向かいの壁にある扉から大きくてするどい声が響いてきた。(もっとも私はそこに扉があるのもこの時気づいたし、そもそも前からちゃんとあったのかも怪しいのだけれど)
「ドクトル・アプサント! 」この声を聞くと、隣に座っていた男が雷にでも打たれたみたいにぴょこんと飛び起き、直立不動になったかと思うと、とんでもなく緊張した様子で扉に向けて歩き出した。ドクトル・アプサントと呼ばれたその男がガタガタと震えるせいで折角整えた帽子が、沸騰した鍋のふたみたいにとびはねてずり落ちそうだし、不安げに胸に手を当ててポケットのハンケチを握りしめるものだから、こちらも元のしわくちゃに戻ってしまっている。
 

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