小説

『虫の家』荒井始(『変身』フランツ・カフカ)

 視界の端で影が動いた。俺の心臓がどきりと跳ねる。
 しかし俺は努めてそちらを見ないようにしながら子細に床を調べた。
少し、ほんの少しだけその部分の床の色が違う。よく見れば似た色のペンキが塗られていることに気付いた。加えて執拗にその上からワックスが塗り重ねられているのがわかる。
俺は目を凝らした。そこには壁のものと同様、文字が彫り込まれていた。
“変われない”
 辛うじてそう読めた。
まるでその文字を消そうとしているかのようにペンキとワックスが厚く塗り重ねられているのだ。
「これはあんたが書いたのか?」
 俺は自分でも驚くほど自然に視界の端で蠢く“兄”に話し掛けていた。
 それに答えるようにごりごりと床を擦る音がした気がして、俺は気味悪くなって部屋を出た。

 しばらく快晴が続き、工事もそれまでの遅れを取り戻すべく快調に進んだ。現場監督が会社の上役らしき人間と揉めているのを何度か見たが、きっと工事が遅れているからなのだと思っていた。
 ある日また唐突に雨が降り、工事が昼から中断された。
 酒の誘いをやんわりと断って、俺は一人こっそりと例の警官に会いに行った。
 警官は職務の合間を縫っていつも同じ場所からあの家の様子を伺っていた。非番なのかその日彼は制服ではなかった。
 俺が近付いて声を掛けると、警官は惚けたような顔で俺を見返した。
 適当な理由をつけて警官を半ば無理矢理に飲み屋に誘い、俺は世間話を交えながらさりげなくあの家の話を聞き出そうとした。初めこそ話題を避けていたが、酒が入る内にだんだんと彼は饒舌になっていった。
「あの家の“兄”の話を聞かせてくれないか」
 尋ねると警官は赤ら顔をにやけさせた。
「どうして俺にそんなことを聞く」
「あんた“兄”を知ってるんだろう? 彼の部屋にあんたの写真があった」
 警官は今度は自嘲的に笑った。
「“兄”ね。へへ……あいつを下ろしたのは俺なんだ」
「下ろした?」
「ぶらーり、ぶらーり揺れていたのを大事に抱えて下ろしたんだ」
 俺は口を閉じ、彼が語るに任せることにした。
 

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