小説

『虫の家』荒井始(『変身』フランツ・カフカ)

「俺はずっとあいつの相談や愚痴に付き合ってたんだ。仕事がうまくいかないだの、人との付き合い方がわからないだの。その度に俺は言ったんだ。お前は変わるための努力をしている。いつかそれが報われる日が来るってな。それがあんなことになっちまって、後悔してもしきれない」
 警官は酒をあおった。
「最初に見つけたのは両親と上の妹だったそうだ。時間になっても起きてこないのを不審に思って部屋に 入ってあいつを見つけた。だのに俺が駆けつけるまで奴らは息子の体を下ろそうともせずに三人揃って呆けていた。俺が下ろしたあいつの体にとりすがって泣いていたのはあそこの幼い末娘だけだった。そうしてしばらくしてから俺が様子を見に行ってみると、奴ら三人は部屋の隅にいるでかい芋虫を見て騒いでいた。それで俺に言うんだ。『息子が、兄が、虫になってしまった』ってな」
 ああ。
 俺は飲み屋の古びた天井を仰ぎ見た。そして尋ねた。
「もしかしてあの家族は今もそんな妄想に取り憑かれているとか?」
「ああ、その芋虫を今も囲い続けている。俺が何を言ったって聞こうとしない」
 警官は空になったコップを卓上に叩きつけた。
「あの家族の生活は全て息子頼みだった。あいつが悩んでいることも知らず、あいつにだけ働かせて自分達はぬくぬくと生きていた。それでもあいつは家族のために必死で変わろうとしていたんだ。しかし変われないと見るや、今度は家族を変えようとした。あんな手段でな。俺はそう思ってる」
「それで、変われたのかい?」
「あいつが死んで漸く奴らは自分達が息子に強いてきたことに気付いた。確かに一見娘と父親は外に働きに出て変わり始めたように見えるが、俺に言わせりゃ何も変わってない。あの家の中から進み出せていないのさ。奴らは息子を追い詰めていたことへの罪悪感から身を守るために、息子が虫に変わったという妄想を必死に信じ込もうとしている。それどころか、ただ醜いだけの存在になった息子に変わらず接する自分達に酔ってすらいる。まったく反吐が出るよ」
 怒りに震える警官の目から流れた一筋の涙がとても印象的だった。
 

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