小説

『虫の家』荒井始(『変身』フランツ・カフカ)

 扉の前に立つ。しかしいざ入ろうとするとやはり怖気付いてしまう。しばらく扉の前をうろついた後で、その姿を少女に見られているような気がして大人気なく赤面した。しかしそれで踏ん切りがつき、俺は扉の鍵を開けてゆっくりとノブを引いた。
 扉の隙間から中を覗き込む。
 前回“兄”がいたタンスと本棚の隙間には何もいなかった。
 ごくりと喉を鳴らした。まだしつこくこびりついた恐れが俺の体を強張らせている。
 これ以上もたもたしていては奥方が帰って来てしまう。俺は意を決して部屋の中に身を滑り込ませた。
身を屈めて恐る恐る寝台の下を覗き込むと、古びた段ボールの中で何かがごそごそと蠢いている。俺は背筋が粟立つのを感じた。
 そこにいてくれよ。
 俺は心の中で哀願すると扉の隙間から差し込むオレンジの光を頼りに部屋の中を観察した。何か人の頃の“兄”の痕跡が残ってはいまいかと思ったのだ。それがあの悪夢を消す手掛かりになるかもしれない。
壁には額に入った写真がいくつも掛けられている。それが“兄”なのだろうか。写真の人物は全て顔を黒く塗りつぶされている。
 その中の一つに目が留まる。二人の男性が肩を組んで写っているのだが、その両方の顔が塗り潰されているのだ。片方は“兄”なのだろう。もう一方は誰だろう。その太り気味の体つきには見覚えがあった。
“変わろう、変われるさ”
 以前に見た文字は当たり前だがそのまま壁に残っている。
 よく見ると部屋のあちこちに粘液の跡が残っていた。薄く埃の積もった中でそれが際立って輝いて見える。
 部屋の中央には大きな梁が一本通っている。そこも随分と掃除していないのだろう、埃が積もっていたが床を覆うそれよりも厚みがあるように思えた。
 俺は背伸びして梁に顔を寄せると目を細めた。そこには何かを引っ掛けたような跡があり、その部分だけ埃がなかった。俺はそこに引っ掛けられていた何かを目で追うようにそのままなんとなく真下の床に視線を下ろした。一瞬その床に違和感を覚えて今度は身を屈め、その床に目を寄せた。
 

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