小説

『虫の家』荒井始(『変身』フランツ・カフカ)

それはまだ幼い少女だった。好奇に満ちたその目は俺の視線と交わるとさっと恐れの色に変わって奥に引っ込んだ。
「下の娘でございます。人見知りが激しくて困ったものでございますよ。これ!」
 老人は言って少女の消えた方向に呼び掛けた。俺は慌ててそれを遮る。
「構わんよ。知らない大人がやって来れば怖くもなる」
 俺はむしろ家人達の対応が疑問だった。何故ただの間借り人にこんなにも下手に出るのか。それだけ会社から金を受け取っているということだろうか。あるいは間貸し自体初めてで接し方に戸惑っているのかもしれない。
 それから俺達は面白くもない老人の犯罪自慢を聞いた。話が堂々巡りを始めたのを区切りとして俺達は談笑を切り上げ、床に着くことにした。明日も仕事が待っているのだ。
ダイニングを出た所で、俺は廊下の奥にもう一つ扉があることに気付いた。照明のない暗い突き当たりにぼんやりとその扉は浮かんで見える。
 少し酒が入っていたこともあり、俺は気持ちよくなってふらふらとその扉に近付いた。何とはなしにドアノブに手を掛けようとした時、突然娘がすごい勢いで俺と扉の間に割って入った。
「この部屋には入ってはいけません」
 気迫に満ちたその声はしかし気のせいか聞かれることを恐れるように低く唸るような調子だった。
「決してドアに近付かないで下さい」
 娘は何度も俺達三人に言い含めた。
「何の部屋だい」
 髭の男が軽い調子で尋ねると、娘は一層声を低めて言った。
「兄の部屋です」

 連日悪天候が続き、俺達の作業は中止を余儀なくされて橋の工事は滞っていた。
俺以外の二人は昼間から飲んだくれていた。しかし俺はなんとなくあの“兄の部屋”というのが気になって酒に酔う気にもなれなかった。
初めてその家にやってきた日から数日経った頃、寝苦しさに寝付けない夜があった。漸く微睡み始めた頃にぼそぼそと家人達の話し声が薄い壁越しに聞こえて来た。俺は興味本位で壁に耳を押し付けた。
 

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