「一体これからどうすればいいのかしら」
悲痛な声は娘のものだろう。それに答えるのは野太い老人のそれだ。
「金なら全員で地道に稼いでいくしかないだろう」
「いいえ、兄さんのことよ」
俺は一層強く耳を押し付けた。
「あんな姿になってしまって、いつまでもあそこに閉じ込めておくこともできないわ。それに……あたしももう耐えられない。じっと見ていると吐き気がするの。あたしは兄さんに嫌悪感を抱いているのよ!」
「もう少し声を落としなさい。聞こえてしまう」
「大丈夫よ。みんな眠っているわ」
「彼らは眠っているかもしれないが、あの子は起きているかもしれない」
そこで唐突に会話は途切れた。
その家の“兄”にお目にかかったことはまだ一度としてなかった。きっと病気か何かだろうと深く勘繰りはしなかったが、その会話を聞いてから俺の中で下品な好奇心がムクムクと身をもたげ始めたのだ。
雨音が間断なく響いている。
家人達は奥方を除いて朝から仕事に出掛けていた。その奥方もつい先程から買い物に出掛けていた。酔い潰れた男達もソファーの上で高鼾を上げ始めた。
俺はゆっくりと薄暗い廊下を進み、例の扉に近付いた。
と、中からごとりと何かが転げ落ちる音がして俺はその場に固まった。その後何かが床を擦るような音がしていたが、それが途切れるとまた雨音と鼾だけがその場を支配した。
一度背後に目をやってから俺は目の前のノブをつかみ、回した。
しかし扉は開かなかった。
「見たいですか?」
突然そばで声がして、俺は飛び上がった。振り返るとそこには雨に髪を濡らした娘が立っていた。その表情は疲れきって見えた。
娘が床に滴を垂らしながら一歩二歩と前に出た。俺が気圧されて道をあけると娘は扉の前に立ち、懐から鍵を取り出した。
彼女が鍵を差込み捻るとがちゃりと鍵の外れる音がした。それは嫌に大きく家中に響いたように思えた。雨音と鼾がとても遠くに聞こえる。
「驚かないでくださいね」
そう言い置いて娘はゆっくりと扉を開く。