小説

『役所のおうさま』原豊子(『裸の王様』)

 自分の名前を知らなかったのは、新人だから許してやろう。さっと俺の言ったことを走り書きしたメモを持って、立ち上がった彼女の姿を、思わず目で追った。グレーのカーディガンに白シャツ、紺の膝丈のスカート。服装、まず合格。時々役所の女には何を勘違いしたのか真っ赤なワンピースを着てくる奴がいる。職場で市民に接する格好ではないと、思う。胸のあたりに揺れているネームを盗み見たら、「八代」とあった。彼女はパソコンで何かを確認すると、奥のデスクに立ててあったファイルをカウンターに持ってきて、「お待たせしております」と俺の前でそれをめくりはじめる。
「菅内様……去年の十二月に、申請にお越しいただいておりますね。今パソコンで確認いたしましたら、今年の六月までは減額の対象となっておりましたので、ご安心ください」
 ファイルに、俺の名前を見つけて、八代さんはぱっと顔を上げる。微笑を浮かべたその表情を見て、「ううん」と思わずうなってしまった。この子の笑顔は、なんとも言えない温かみを感じる……うまくは言葉にできなかったが、怒鳴りだすタイミングをその笑顔のせいで見いだせないのだ。一種の圧力のようなものをほほ笑みに感じながら、俺は八代さんの顔を眺め続けた。それが、何か言いたげに映ったらしい。
「菅内様、入居されてからずっと、減額の手続きされていますので十分ご存じだとは思うんですけれども、六月に一度期間が切れてしまうので、継続されたい場合は六月中にお手数なんですがこちらの窓口においでて頂いて、再申請をよろしくお願いいたします……何か、ご不明点などございますか?」
 わずかに首を傾げた八代さんは、黒目がちな大きな瞳で俺を見つめた。その視線に、ふいにどきりとしてしまって、思わず、
「いや、ないです」
と答えてしまう。すると、彼女はにっこりと笑い、「それでは」とファイルを閉じた。自然に帰る事を促されて、椅子から立ち上がる。それを確認して素早く起立すると、彼女はもう一度にっこりと笑って「ありがとうございました」と深々と頭を下げた。
 すごい。完璧だ。ふらふらと彼女に背を向けて、出口へと向かって歩きはじめる。今まで自分が役所で見た新人で、叱らなかった者がいるだろうか。あの若さだったら、前職についていたとも考えられない。それなのに、あの物腰、あの笑顔。
「八代さん、よく怒られなかったね」「え、何がですか?」「あれがこの前話した、有名な菅内康夫だよ」……背後で交わされた会話に、それはそうだと一人胸の内でつぶやく。彼女を、怒る理由がない。
 この日から、はじめて役所にお気に入りができた。

 

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