小説

『役所のおうさま』原豊子(『裸の王様』)

「はい、こんにちは」
 だがしかし。俺を迎えたのは八代さんの笑顔ではなく、いつも彼女の背後に控えていた、五十代の男の無気力な顔だった。狭いコーナーに、八代さんの姿はない。一瞬、「八代さんは」と言いかけようとして、若い女の子目当てで来ていると思われるのが嫌で、やめた。仕方なく、彼の前に座る。
「どうされましたか」
 腰を下ろして、彼の顔を改めてみると、こけた頬にどろりとした半眼がこちらを見ていた。いや、こちらを見ているようで全然俺を見ていない。焦点の定まらぬそれはどこか世捨て人の感じさえある。八代さんばかりに気を取られていたが、この男もはじめてみる顔だ。
「家賃減額の再申請に来たのですが」
「はあ、ではお名前と何団地の何号室かお教えいただけます?」
 優しげに聞こえる耳あたりの良いゆっくりとした声も、よくよく聴けばただ抑揚がなく間延びしたものだった。何より今にも眠りだしてしまいそうなだらしのない表情から、こちらのことなど微塵も考えていないことが見受けられる。
 なんだ、この男は。
 怒りに震えだした右手をさっと膝の上からのけようとすると、視界の端に長い黒髪が映った。と、同時に「こんにちはー」といつもの清々しく耳に響く挨拶が聞こえる。
 八代さんがカウンターの向こうに入り、俺の斜め前に立った。自分に言われたのかと思ったが、彼女の視線はまっすぐ別のところに注がれている。間もなく、背後から「こんにちは」という声と、小さな子供を二人もつれた、茶髪の女性が現れた。さっと椅子を引いて「静かにしてなよ」と蓮っ葉に子供に言う彼女が座るのを見届け、八代さんも着席した。
 あと、もうちょっとだったのか。内心舌打ちをしながら、右手を膝の上に戻す。八代さんの笑顔を見ると、右手の震えはとまっていた。
 彼女ばかりを見ていても仕方がないので、目の前の男に目を戻す。志藤、ネームプレートにはそう書かれていた。顔に反した名前だ。名前と団地、部屋番号を告げると、男はのっそりと立ち上がって、奥にあるパソコンに素早く何かを打ち込んだ。
「菅内さんですねー、減額申請今月で切れますので、お手続きということで」
 ぴくり。菅内「さん」だと? 右手の震えが、また始まる。この男、八代さんと仕事をしているというのに、客に「様」をつける神経もないのか。信じられない。
「再申請には住民票を新しくとってきていただかないといけないんですねーあとでとってきて下さい」
 ぴくぴくぴくぴく。こめかみが小刻みに痙攣した。この、ぞんざいな言い方、この表情。だらだらと必要な書類をカウンターの下から取り出し始めた男を、にらみつける。
駄目だ、八代さんを見た時におさまった怒りが、腹の中でむらむらと燃え始めた。
「じゃあ、この二枚、記入してください」
 ずい、と目の前に出された書類に、反射的に、
「嫌だ」
と口走っていた。勿論、こんな男のぞんざいな物言いに従って、書類を書くのが腹立たしく出た言葉だったのだが、咄嗟の言葉がつい幼くなってしまい、焦る。いつもなら、ここですぐに怒鳴れるのだが……八代さんが見ている。大人げないと思われては、嫌だ。
 

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