小説

『生贄は不要』広都悠里(『みにくいあひるの子』)

「やってみたら楽しいかもしれないぞ」
「楽しくなかった」
 お父さんの人生ってどうなの、やっぱりそこそこなんでしょう?悪くもなくよくもなく人並みで、まあまあ幸せ、なんて言っちゃうんでしょう?
「ばっかみたい」
「こら、遥香、その口の利き方は何だ」
 振り上げられた手に思わず顔を背けて目をぎゅっと閉じた。ぶたれる、と思ったが次に目を開けた時、その手をおろして決まり悪そうにする父の姿があった。
「お父さんは、ただ遥香がもっと」
 隣にいた母を見た。母はうつむいて誰の顔も見ないようにしていた。妹は関係ありませんと言う顔で必死でごはんの残りを口に押し込み「ごちそうさま」と小さく言って急いで自分の部屋にひっこんだ。
 「あの子が怖いのよ」帰ってきた父に母がささやくように言うのを、あたしはいつどこで聞いたのだろう。うつむく母の白いうなじを見ながら思い出す。今も、思っているのだ。あたしのことを怖い、と。だからうつむいたたまま目も合わさずやりすごそうとしているのだ。
 あの家にいるとあたしは自分が間違った場所にいるように感じる。きっとあたしの場所はあそこにはないんだ。じゃあどこに?他人の顔色をうかがってへらへら馴染む努力なんかしない。あたしはあたし、どこにいたって変わらない、変われない。
 ああ、退屈だ。人気ない学校の中庭で腕に止まったかなぶんを叩き落とした。緑色に輝くこの虫もくつで踏みつければ、ばりぐしゃ、というはじけつぶれる感触と共にきらきらした緑色はくすんだ茶色に変わるだろう。小さな命を握り潰すことは簡単だ。不意に手のひらが冷たくなる。蘇るカエルの感触。冷たくぬるっとした小さな緑色のカエルは動くおもちゃみたいで、きゅっとにぎるとうにゅうとなった。
「ねえ、暴れないで。いい子にして」
 ひんやりぬめった体が手のひらの温度であたたまり、くねるように暴れ動くのを押さえるうちに黒々としたみずみずしい大きな丸い目が濁って半目になった。くったり弱ったカエルはもう暴れない。ひく、ひくとひきつったように喉が動いている。でもまだ生きている。あたしはカエルを殺してはいない。ほっとして次のカエルを捕まえる。生きているおもちゃだ。遊んでいるとあんまり動かなくなっちゃうけどね。きゅう、とさっきよりやや強めに、少し長く握る。手を開いて、次のカエルを探す。
「遥香ちゃん?」
 優しい母の声にふり返るあたし。
「あのね、カエルさん、きれいでかわいいから……」
 あたしの手からポトリと落ちたカエルを見るとひ、と息をのんでから「何やってるの!」とそれまで聞いたこともないような激しい大きな声を出した。あれはあたしがいくつの時だったんだろう。
 あれからだ。包み込むようにあたしの手を握ってくれていた母の手が、ためらうようにあたしの指先にしか触れなくなったのは。ぎゅうとだきしめてほっぺたをくっつけてくれなくなったのは。
 いけないことをした。ごめんなさいごめんなさい、もうしません。あたしの声を母は背中で跳ねのけた。離れた心は戻らない、とあたしは知った。きゅ、と胸の真ん中から塊がせりあがってきて苦しくなる。嫌なことを思いだしてしまった。落ち着いて、深呼吸。吸って、吐いて、大きく吸って、ほら、大丈夫。
「何をしているの?」
 背後から男に声をかけられて飛び上がった。とっさに足元を見て、自分がかなぶんを潰していないことを確かめる。
「別に何も」
「何もしていないんじゃ、退屈だろ?」
 若干よれてこなれた感じの制服から三年生だな、と見当をつけた。同じ学年なら名前はわからなくても顔くらいは見覚えがあるだろうし、一年なら制服はもっとぴんとしてなじみの悪い新しさみたいなものを感じるはずだ。

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