小説

『寝太郎と私』平井玉(『三年寝太郎』)

こだわりたいならネットを使え、と思う。しかし通販は受け取りが面倒くさいのか、あまり使いたくないらしい。ワッフル地のペーパーに文句はつかず、以来寝太郎とのコミュニケーションはドア越しのメモで行うことになった。「うちのマンションは日当たりが悪くて寒い。昼はこの家にいてもいいか①いい②気になるから嫌③どうでもいい④その他」というメモを差し入れると、一番に丸がついて戻ってきた。それからは堂々と、一階を好きなように使わせてもらった。代わりに無論掃除をする。応接間にはこけおどしのような本棚があって、日本文学全集、司馬遼太郎全集など、お父さん、絶対読んでないでしょう、と言いたくなるような本が並んでいた。おかげでこの歳で今更夏目漱石などを読んだ。「こころ」を読んでみたが、出てくる男がどいつもこいつもはきはきせず、感情移入できるのは下宿屋のおばちゃんくらいでうんざりした。コンビニに嫌気がさしたのでキッチンを使っていいかとメモすると、いいと返事が帰って来た。「料理をしたら食べたいか①いやいや、コンビニのご飯が好きなのでいりません②そうですね。作ったらぜひ③どうでもいい④その他(リクエスト可)」というメモを差し入れると、②に丸があり、余白に「二人分作る気になったときだけでいいです」と書いてあった。ひきこもっても相変わらず礼儀正しく奥ゆかしい寝太郎なのであった。それからは簡単な料理も差し入れた。味噌汁は保温ジャーに入れ、ご飯はなるべくおにぎりにしていつ食べてもいいようにした。寝太郎の家に行くのは週四日なので、日持ちのする食べ物も買って持っていき、両方ドアの前に置いた。数日後に空の食器がドアの前に置かれた。寝太郎からたまに送られてくるメモはもっぱら買い物のリクエストで、主に菓子パンが好きだということがわかった。それも定番のやつ。名作ナイススティックとか、マーガリンの入ったあんパンとか。菓子パン通の私は、おいしいパン屋のデニッシュを買ってきてやったりもしたが、リクエストはあくまでコンビニレベルなのであった。寝太郎のリクエストだけで食事を構成したら、早晩脚気か糖尿病になりそうだった。料理には野菜を多く入れていたが、たまに寝太郎も「キャベツの千切りをボールに一杯」とか希望してくることもあった。
 職域が広がるのは必然だった。ある日、隣のおばさんが怒鳴り込んできた。何かと思ったら、寝太郎はごみ袋を二階の窓からゴミ捨て場に向かって投げていたらしい。カラス除けネットなどあることも知らないのだろう。近所の人々は苦々しく思っていたようだが、その日はとうとう落下の衝撃で袋が破れ、ごみが見事に散乱したらしい。昔、真面目に働いていた頃のクレーム処理能力を必死で働かせて対応した。寝太郎が親の死後うつになっており、自分は親戚だがなんとか死なないように面倒を見ている。監督不行き届きで申し訳なかった、以後このようなことが無いようにする、としゃべり倒し、謝り倒して帰ってもらった。その日、ドアの下からm( _ _ )mという絵が描かれたメモが現れた。

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