小説

『寝太郎と私』平井玉(『三年寝太郎』)

 寝太郎と初めて会ったのは、二年前に五反田のキオスクで働き始めた頃だった。あらゆるバイトが続かない私だったが、キオスクの仕事は案外肌に合った。客が品物を取った途端に全ての支払いとお釣りのパターンが頭に浮かんだし、常連の顔と買うものはセットで覚えることができた。人間って何らかの名前が無いとうまく記憶できないみたいで、私の頭は彼らを記号化して分類整理している。「ゆで卵」と名付けたおじさんは毎朝栄養ドリンクを買う。寝太郎は日経新聞と缶コーヒー。まだ若いのに不健康にたるんだ体と、いつも半分眠ったような重いまぶた。無駄に背が高い。当時寝太郎のことは「うっそり、日経、コーヒー、支払いはスイカ」と認識していた。通勤時のあわただしさを、渋谷109の新春セールをさばく元気な店員みたいな気分で週四回の勤務を乗り切っていた私には、常連であってもそれくらいの認識しかできなかった。誰にも舌打ちされず、誰も乗り遅れないように買い物をさせることがキオスクの醍醐味なのだ。挨拶も交わさないが、常連たちは愛おしかった。彼らの素晴らしさは、永遠のように同じものを買い続けるところだ。たまに違うものを買うときは彼らの生活の変化に思いをはせて楽しんだ。だから、ある日寝太郎がいつもより遅い時間に寝癖だらけの頭とユニクロのポロシャツ姿で現れ、香典袋を買ったときはかなり心を惹かれた。
「両親が事故で死んじゃったんです。いっぺんに」
 バリバリとその場でビニール袋を開けながら寝太郎が言った。思えば、声を聞いたのはその時が初めてだった。印象を裏切らないもっさりとした声だった。寝太郎は香典袋に三万円入れると、私に手渡した。思わず受け取って、それから慌てて返そうと差し出した。
「5時から通夜なんです。桐ケ谷斎場。駅前からバスですぐ」
「いやほんと、ご愁傷様です。けど、これは?」
「これ持って、お通夜に来てくれませんか」
「え、なんで」
「ちょっとお願いしたいことがあるんです。あの、まあ、寿司が出ますから。寿司は結構いいやつ頼みましたから。夕飯代わりにでも」
 眼鏡の奥、重いまぶたの下から案外まっすぐ見つめられた。
「嫌なら来なくても大丈夫です。三万円は貰っちゃってください。もう朝の電車は乗らないと思うんで会わないし、気まずくもないですし」
 一息にそれだけ話すと、寝太郎は電車には乗らずに帰って行った。通勤ラッシュが終わった人の少ない構内に、私と香典袋と寝太郎の名刺が残された。名刺には日本で一番平凡な名字と、門外漢の私でも聞いたことがあるコンサルティング会社の名が記されていた。

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