小説

『走ってるんだよな? お前』川月周(『走れメロス』太宰治)

 時間は黙っていても過ぎていく。早く進んで欲しいときは鈍く感じ、時間よ止まってくれなんて叶いもしない願いを込めているとえらく早く進んでいくように感じる。この錯覚を上手く利用してもう少し時間を有効活用出来ないだろうか。
 もうすぐ死ぬかも知れないのに、俺は余計に自分の将来について考えた。結婚の予定もないし、彼女も居ない。終身雇用も崩壊した今、例え正社員で働いていても何が起こるともわからない。安定を選んだ結果なのに未来は決して明るくはないのだが、そんな未来でもこうして想像していれば少しは「死」が遠のくような気がして無理矢理考え続けた。
 地道に案を練り続けてようやく老後の隠遁生活まで密な計画を立てられた頃、スーツの男が俺の両隣の男に命令した。
「お前等、これで飯買って来い。後、本屋で走れメロスも買って来い」
 一万円札をスッと渡しながら、何か結末をどうしても思い出せなくてよぉ。と苦い顔をした。こいつもどうやら結末を忘れてしまったらしい。
 両隣の男が去り、目の前で煙草を燻らす男と二人きりになる。会話はない。ただ、きっと考えている事は同じだろう。
 (メロスって間に合ったんだっけ?)
 一番大事な事のはずなのにどうしてここまで印象に残っていないのだろうか。これが間に合ったのと間に合っていないのじゃ物語がまるで違うものになってしまうんじゃないかと思うくらいの重要な部分はやはりちっとも出て来る気配は無く、代わりに「初夏、満天の星である」という凄まじく綺麗な一文や、確かに一回諦めた気がすると言う事くらい。諦めた後どうなったかをまるで思い出せない。
 メロスが走る理由も、親友が捕まっている理由も思い出せるのに何故か結果だけ思い出せない現状が何か不吉なものを感じさせて来た。
「兄ちゃん。もしかしてどんどん不安になって来たんじゃねーのか?」
 俺は首を横に振る。時刻は午後一時。後、五時間。
 男は俺の頑な態度を崩してみたくなったのか二人きりになって随分と話しかけて来るようになった。
「締口には妹はいたかなぁ?」
 首を横に振る。メロスは妹の為に戻らなくてはならなかったが、一人っ子の締口は給料を前借りする為に走っているだけだ。まるで違う。
「兄ちゃんは親友なんだろ? あいつと」
 これには首を捻ってしまった。確かにメロスは親友の為に走っているが、俺はあいつの親友かと言われると案外答えづらい。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10