小説

『走ってるんだよな? お前』川月周(『走れメロス』太宰治)

 時を遡る事、九時間前。
 俺は大学時代からの親友「締口鈴太郎(しめぐちすずたろう)」の家で久しぶりに酒を飲んでいた。
 こいつは昔から破天荒な奴であったが、義理堅く男気溢れる昔ながらの日本男児のような性格で俺だけではなく色んな奴から好かれていた。
 学生時代に起こした事件は数知れず、卒業してからも定職に着かずにフラフラと放浪の旅に出てみたり、音楽の道を目指したり、はたまた格闘家を目指したりと全く夢を見させてくれる奴で、真っ先に「正社員」という安定をとった自分と真逆の人生を歩んでいた割に不思議とウマが合った。
 消えては現れの繰り返しで神出鬼没だったが、俺は会う度にこいつが語ってくれる自分の身の回りで起きた出来事の話が大好きで、どんな急な誘いでも絶対に断りはしなかった。
 そして締口はいつだって俺を大笑いの渦に巻き込んだ。
 こいつにかかれば、なんて事はないお店の看板も途端に笑い話の種になってしまう。
 その類い稀なるセンスに震えた俺は何度もお笑いの道を進めたが、何故かそれだけは絶対に目指さなかった。
 本人は「興味が湧かない」の一点張りで、何度も勧めていた俺も次第にめんどくさくなってしまい、いつしか話題にも上らなくなった。
 そんな締口がある日ひょっこりまた現れて俺に言うのだ。
「おい。俺、仕事決まったぞ!」
 これは祝わない訳にはいかない。正直、ちょっと寂しくもあったが、一人の男の決断だ。野暮な事は言わない。俺達はもう三十歳を越えているのだ。いつまでもフラフラはしていられない。
 そして酒やらつまみやらを必要以上に買って締口の家に向かった。
 と言うのも、いつもならどこかの居酒屋なんかで次の日まで酒が残るくらい飲んだりしていたのだが今回はしきりに締口が自宅に行きたがったのだ。
 珍しいなと思いながらも、別に居酒屋に拘る理由もないし、締口の家と言うのも気になったので今回は家呑みという形を取った。
「何にもないんだけどさ。まぁ上がってくれよ」
 照れくさそうに鼻をかきながら締口がドアを開ける。その前に外観で既に面食らっていた俺は何となく気後れしてしまった。
 ボロアパートどころの騒ぎではなかった。最早、腐っているんじゃないかと思うような木造二階建てのアパートは家賃一万円取るのも申し訳なくなる程の見栄えで、階段は鉄製だったが、やはり錆や腐敗が激しくいつ底が抜けるかとヒヤヒヤした。
 点滅する蛍光灯の下、淀んだ空気の廊下を進んだ一番奥に締口の部屋はあった。
 中へと入っていく。締口が電気を付けた。
「んじゃまぁ適当に座ってくれ」
 中は外観とは違ってそれほど危なげなさそうに見えた。いや、むしろ古くさいのは抜きにしてなかなかに綺麗ではないか。と言うより物がない。
 本当に住んでいるのか? と思うくらい生活感が感じられなかった。
 あるのはちゃぶ台と灰皿のみ。布団は押し入れに閉まっているのだろうか。いやいや、人の家で変な詮索はするまい。

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