小説

『走ってるんだよな? お前』川月周(『走れメロス』太宰治)

「すまん」
 俺はずっとこの言葉が引っかかっていた。

「あと九時間か。まだまだ長いな」
目の前のソファーに座る男が不適に笑う。間にある大理石で出来たテーブルの上には契約書。サインはもう入っていた「阿戸嵐助(あとらんすけ)」俺の名前だ。
 後は判を押すだけ。なのだが、押すかどうかは九時間後の十八時に決まる事になっていた。
「兄ちゃん。走れメロスって知っているか?」
 目の前の男の質問に俺を挟むように座っている若い男の片割れが口を挟む。
「芥川っすか」
(太宰治だよ)
 声には出さない。両隣に居る男達は二十代前半と言った所か、俺よりも恐らく十歳は若いと思う。目の前の高級そうなスーツに身を固めた男とは違い、安っぽいジャージ姿で威圧的に貧乏揺すりをしている。
 三十過ぎにもなってこんな年下に威圧的な態度を取られるのも悲しいものだが、だからと言って注意をしたりはしない。
 この事務所は彼らの巣であり、俺は人質兼保険なのだ。
「お前は本当に学が足りねぇな。高卒だっけか?」
「へへへ。中卒っす」
 照れる理由も分からないのだが、右隣の男はこのご時世、何の自慢にも箔にもならない経歴を笑って話した。スーツの男は溜め息をつくも表情は穏やかで事務所内の空気は緩かった。
「走れメロスは太宰治だ。もう小学校で習わねぇのか? あれ中学だったっけか?」
 まぁいいや。とまた俺に向き直る。
「兄ちゃんはそれに出て来る友人だな。さて、現実のメロスは果たして来るのかな」
 俺は何も答えず、ただじっと目の前の時計を見ていた。刻一刻と時を刻むこの針の動きが重たくも一定なのがすごく残酷に見えた。
 走れメロスは勿論知っていた。作者が誰なのかも。ただ、やはりいつ習ったかは思い出せなかった。そして結末も忘れてしまっていた。
「兄貴。どんな話でしたっけあれ?」
 もう一人の男が楽しそうに口を開く。そう、これは彼らにとって余興のようなものなのだ。少しだけ遊んでやるか程度の気持ちで行われている出来事。
 ただ、俺の命がかかっているだけで。
「ありゃヒドい話だ。何だかメロスって男が勝手に友人を人質に差し出してどっか行って戻って来るってだけなんだけどよ」
「勝手にっすか?」
「あぁそうだ。しかも確か一回諦めるんじゃなかったか?」
「それ本当に友達っすか?」
 スーツの男はその言葉にガハガハと声を出して笑った。
「さぁな」
 ニヤついた顔で俺を見るその男は果たして何を期待しているのやら。

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