小説

『小さな姫の帰還』村越呂美(『おやゆび姫』)

 和田さんは、デザートをサービスする私の手を軽く握った。そのぽってりとした冷たく湿った感触は私をぞっとさせたけれど、我慢した。和田さんは店を続けるための大事なお客様だ。私はお店がなくなってしまうのは嫌だった。それに何と言っても、新島さんは私の恩人だった。
 なんとか新島さんの店が軌道に乗るまで、我慢しよう。そう思って私は週に一度、和田さんとデートした。和田さんは五十二歳で、私とは親子ほども年が離れていたから、いきなりホテルに連れ込んだりはしなかった。家を出てから四年半。私は二十歳になっていたけれど、和田さんには、まだ未成年だと言ってあった。
「麻衣ちゃんが、二十歳になるまで待つよ」和田さんは言った。和田さんには奥さんも子供もいるんだから、その程度の我慢、紳士的とさえ言えないけれど。
 いよいよ和田さんからの誘いを断るのが難しくなってきた時、私を救ってくれたのは母だった。私は見知らぬ番号からかかってきた電話で、母の死を知らされたのだ。母の死は、私をすべてから解放してくれた。母が亡くなって、家に帰らなくてはならなくなったと説明すると、飯島さんも和田さんも、私を温かく見送ってくれた。
 そして、私は五年ぶりに家に帰ってきた。母はくも膜下出血という病気で、会社で仕事中に倒れ、そのまま死んでしまったらしい。
 私が帰った時には、母の遺体はもう病院から自宅に戻っていた。棺の中の母は、私の記憶の中の母よりもずっと小さく、頼りなく見えた。
「ゆかりさん、きれいでしょう? 肌なんてしみひとつなくって」
 母方の親戚らしいその女性は、母の顔がよく見えるように、私を前に押しだしてそう言った。確かに母は、五年前よりも若く見えて、死んでいるなんて信じられなかった。
 いつか、そのうち。その気になればかんたんにできる。そう思いながら、結局できずに終わることって、あるんだ。そう思うと涙が止まらなくなった。いつか、そのうち、また母と一緒に暮らすんだろうな。私はその程度に考えていた。私がもう、彼女の小さなお姫様じゃなくて、ちゃんと自力で暮らせる一人の人間になれたら。
 でも、母は私を待たずに逝ってしまった。私は母のきれいな死に顔に、そっと触れてみる。冷たくて、滑らかで、なつかしい母の感触だ。
 自分に失敗を許さない母の生き方を思って、私は涙を流した。
 あなたにとって、私は失敗だったのかしら? それとも、それなりに満足のいく結果だったのかしら?
 お母さん、私、売春はしなかったわよ。私は母の耳元でそっと囁く。
 あなたの小さなお姫様は、まだ王子様には出会っていないけれど、ヒキガエルや、モグラからは、うまく逃げたのよ。私はそう、母に告げた。
 白い服を着て、百合や胡蝶蘭に囲まれて眠る母は、まるでお姫様みたいだった。

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