小説

『小さな姫の帰還』村越呂美(『おやゆび姫』)

 おやゆび姫。あの話には納得のいかないところがあった。
 どうして、おやゆび姫のお母さんは、あんなにおやゆび姫を可愛がっていたのに、さらわれたお姫様を必死になって探さなかったのかってところだ。
 ある日ふらっと家を出た私を、母が一度も連れ戻そうとしなかったみたいに。
 五年ぶりに見る母は白い花に囲まれて、横たわっていた。静かに目を閉じている母は、なんだか知らない人みたいに見えた。
「麻衣ちゃん、さみしくなるわね。母一人、娘一人で、今までやってきたんですものね」
 どこかの知らないおばさんが、私の手を取って涙ぐんだ。こんな人、会ったことあったかしら? 私はどうしても思い出せなかった。それをきっかけにあらためて弔問に集まった人達を見回すと、私には思い出せる顔がひとつもないことがわかった。昔から、母を取り巻く人達の顔ぶれは、まるで季節の移り変わりのように、知らないうちに、それでいて決定的に変化していったから、私はあの人達に会ったことがないのかもしれない。
 母は仕事でも、人間関係でも、失敗することが嫌いだった。見込のない事業に手を出してしまうことや、口の上手い人間にだまされることをいつも警戒していた。
「女には、失敗は許されないのよ」そう言って母は、自分の築き上げたものを損なう危険のあるものを、排除し続けたのだ。
 人々の顔ぶれがすっかり変わってしまったのに対し、五年ぶりに見る母の家はほとんど変わっていなかった。リビングも、食器棚の食器も、私の部屋も少しも古びることなく維持されていた。自分が選んだものを徹底的に愛し、守り抜く、母の生き方がそのままに。母はきっとここで、最後まで戦い続けていたに違いない。
 母一人、娘一人。そう、私には父がいない。最初からいなかった。
「どうしてうちには、お父さんがいないの?」幼稚園の時に、私は母に聞いてみた。
「麻衣にお父さんはいないの。おやゆび姫と一緒よ」母はそう言った。
「おやゆび姫?」
「そうよ。知らない? おやゆび姫のお母さんは、どうしても赤ちゃんが欲しくて、魔女に頼むの。魔女にもらった種を植えて、花の中から生まれたのが、おやゆび姫なのよ」
 母は歌うようにそう言って、おやゆび姫の物語を聞かせてくれたのだ。
 子供が欲しい。そう思った三十七歳の母が駆け込んだのは、魔女の家ではなく精子バンクだった。それは、負けず嫌いの母らしい選択だった。男で失敗なんかしたくなかったのだ。
 二十代で商業デザイナーとして成功した母は、一度も結婚したことがない。成功した若い女にとって、夫選びは難しい問題だったからだ。母が頼もしいと思える男は、女が自分より社会的に上の地位にいることを好まなかった。そして母の仕事を崇拝する男に母は甘えることできなかった。世間の評価という問題もある。下手な相手と結婚すれば、母が築き上げた社会的信頼まで失う危険があった。
 そういう訳で、色々な男とつきあい、別れをくりかえし、年齢を重ねる毎に、母が理想とする結婚はどんどん難しくなった。そして、三十五歳を過ぎてプロデュースした家具や雑貨のシリーズ商品が大ヒットすると、母は結婚について考えるのをやめてしまった。
 しかし、結婚をあきらめることと、出産をあきらめることは、母の中では別の問題だった。母は子供を産むために、恋人の男達をあてにはしなかった。

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