小説

『小さな姫の帰還』村越呂美(『おやゆび姫』)

 私は智美ちゃんの家を出た。彼女をあの連中の中に残して行くのは胸が痛んだ。智美ちゃんは、ダメな私に優しくしてくれたから。でも、行くしかなかった。母は私に「売春だけはするな」と言ったけれど、私は私で決めていることがあったから。麻薬だけはやらないってことだ。
 私は金沢の経営するフレンチ・レストランの厨房で見習いとして働き始めた。最初、金沢は私を恋人にして、経営のパートナーにしようと思っていたみたいだったが、私が中卒だということを周りの友達にからかわれて、その気が失せてしまったようだ。
 その店での私の料理修行は、なんと三年も続いた。仕事はきついし、お給料は笑っちゃうくらい安かったけれど、レストランの仕事が楽しかった。シェフは三十代の女性で、新島さんといった。彼女は私に目をかけてくれて、いろいろと仕事を教えてくれた。私は生まれて初めて、自分にも外見以外で人にほめられることがあるのだと知った。
「あんたは体が小さくて力はないけど、体力はある。それに手先が器用だから、料理人としてやっていけるかもしれないわ」新島さんにそう言われた時は、本当にうれしかった。あんまりうれしくて、母に電話してしまったほどだ。
「お母さん、私、手先が器用だってほめられたの」私が言うと、母は、
「そんなの十年前から知っているわ」と言って、驚きもしなかった。知っていたなら、言ってくれれば良かったのに。私はそう思ったけれど、言わなかった。
 新島さんが独立して自分の店を持つ時、彼女は私も新しい店に連れて行ってくれた。私は新島さんの店でパティシェとして働いた。パンやケーキを作る仕事は楽しかった。私は頭が悪い分、よけいなことを考えないところがいいのだと、新島さんが言ってくれた。
「最近は、理屈ばっかりご立派で、手足が動かない奴が多いからね。その点、麻衣の仕事はたいしたものよ。勘が良いのね、きっと」
 新島さんは優秀なシェフでお店の評判は上々だった。でも、レストランの経営というのは難しいらしく、開店から一年ほどして、店は閉店の危機に瀕した。新島さんは毎日、資金繰りのために、色々な人に電話をかけ続けた。そして、金沢さんに紹介されたという、和田さんという不動産会社の社長さんが、店にやってきたのだ。
 和田さんは新島さんの料理をほめて、店を続けられるように資金提供してくれることになった。けれど、和田さんが本当に気に入ったのは、新島さんの作る繊細なフランス料理ではなく、私の顔だった。
「金沢くんから、美人パティシェがいるとは聞いていたが、これは噂以上だな」

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