小説

『浦島太郎』浴衣なべ(『浦島太郎』)

 「自分に近しい相手を選びなさい。そうすれば、例え何があっても必ず幸せになることができるのだから」
 泣き虫だった母が私によく言っていた言葉だ。母は失踪した父のことをよく話していた。そして、そのたびにボロボロと流した。母は必ず二人の物語のしめにこの言葉を使った。ずっと一緒にいることはできなかったが、それでも彼女は幸せだったということなのだろう。ただののろけ話なのかありがたい訓示なのかよく分からなかったが、その言葉は実感が伴わないまま私の記憶の箱の中に仕舞われた。
 初めて浜辺で彼を見たとき、体中の細胞が一斉に火花を上げ、スパークし、私の体は大きく跳ね上がった。その衝撃のあまりひっくり返りそうになったのだが、慌てて手足をバタつかせてなんとかバランスを保った。顎から力が抜けて口がだらしなく開いた。目は無意識に大きく見開いて、眼球が彼の姿を可能な限り捉えようとした。その甲斐あってか、彼の姿は決して記憶力の良くない私の頭の中に鮮明に焼き付いた。
 辺りには彼以外の人影が見当たらず、寄せては返す波の音しか聞こえなくてとても静かだった。私と彼の間にはどこからか流れ着いた流木があり、私はその陰に身を潜めていたので、彼は私の存在に気がついていないようだった。おかげで私は一方的に彼を観察することができた。
 彼はどうやら浜辺に釣りをしに来たようだった。波打ち際まで行くと腰の帯にさしていた身長よりも高い釣竿を右手に持ち左手で糸と針の調整を始めた。やがて竿を両手で握りなおすと、大きな木槌でも扱うかのように大きく振った。針は虹のようなきれいな放物線を描いて海面に吸い込まれていった。
 降り注ぐ日差しのせいで小さな火種でも抱いているみたいに体が熱かった。しかし、時折吹く海風が私の体を優しく撫で、余分な熱を遠くへ吹き飛ばしてくれた。体温が空気中に溶けていく爽快感に私はうっとりとした。
 凶悪な存在感を発揮している太陽に彼も参っているのか、眩しそうに手で影を作りながら頭上を見上げていた。強い海風を受けると彼は気持ちよさそうに目を細めた。彼も同じ風を感じている、ただそれだけのことで、私は嬉しい気持ちになることができた。
 長い時間をかけ四、五匹ほど魚を釣り上げると、彼は満足そうに帰っていった。太陽は橙色に染まり始め、景色の向こう側に沈みかけていた。暗くなる前に私も帰らなければならなかった。
 私は改めて周囲を見渡した。彼を含め誰もいない。そのことを確かめると私は恐る恐る流木の影から出た。そして、彼が立っていた場所までゆっくりと移動した。
この時、悪いことなど何もしていないはずなのに、自分の行動が誰かに咎められるのではないかとびくびくした。
 彼の立っていた場所まで来てみると砂の上には足跡が残されていた。彼がこの場に残した唯一の痕跡だ。私にはそれが何事にも代えがたいものに思え、形が崩れてしまわないよう気をつけながらそっと撫でてみた。けれど、その行いからは何も感じることができなかった。私は残念に思った。

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