小説

『雪花』沖原瑞恵(『雪女』)

『弥作様が食べても芋はだんまりなのに、私が口にするとからから鳴くのです』
 お雪という名はあまり似合わぬかもしれない、と弥作は思った。弥作が嫌っていたはずの冬は、冷たく物寂しかった。だがお雪は温かい。小春日和の、鳥がさえずる朝に似ている。
「笑い事ではない。お前がおいしく食べられるものでなければ、意味がないんだ」
 弥作は殊勝な顔をつくろって、その日最後の皿を差し出した。
「ほら、これならどうだ」
 潰した豆を寒天で固めた菓子だ。お雪は不思議そうにそれを眺めると、一切れつまんで口に入れる。とたんにしゃりっと音がした。これも駄目かと肩を落としかけた弥作の前で、お雪が慌しく手を動かす。普段の優美な所作からは想像もつかないその様子に、弥作はうろたえながらも筆を握らせてやった。
『味がわかります』
 お雪は頬を紅潮させて自分の口を指差す。
「本当か」
 弥作は身を乗り出した。
「うまいのか」
 お雪は頷いた。が、一転して眉を寄せる。
「どうした」
『おいしいのに、わからない』
「わからない?」
 尋ねてから弥作は、ああ、と息を漏らした。お雪は生まれて初めて知る味という感覚に、戸惑っているのだ。
「それを、甘い、というんだ」
 弥作は教えた。
『あまい』
 何度も同じ文字をなぞり、記憶に刻み付けるように目を閉じるお雪を見つめているうちに、またざわりと、胸が震えた。どうやらおれも初めての感覚に戸惑っているらしいと、弥作は悟る。苦しみにも悲しみにも似たこの痛みを、何と呼ぶのだろう。弥作は衝動のままに腕を伸ばし、お雪の細い身をかき抱いた。初めは驚きからか強張っていたお雪の身体が、腕のなかで雪解けのように弛緩してゆくのを感じながら、弥作は唇を噛む。せり上がる、まだ名のない情の熱い塊を、ごくりと飲み込んだ。

 お雪が食べられるものは日に日に増えていった。だが、そんな喜ばしい変化とは裏腹にお雪の身体は刻一刻と細くなり、ある日の早朝、ついに床を出ることができなくなった。
「お前、なにかの病ではないのか」
 近くの村へ医者を呼びに行くと立ち上がった弥作の衣を、お雪がつかんだ。
『お話していなかったことがございます』
 筆を持つ力も失ったお雪の指が、弥作の腕を掻いた。
『私はこの春を生きられぬのです』
「どういうことだ」
 起き上がろうとするお雪を左の手で支え、弥作は右腕を再びお雪の前に差し出す。
『もとよりひと冬しか生きられぬ身。あの冬の事を詫びるためだけに永らえてきた命も、弥作様にお会いできたことでその役目を終えようとしています』
「何を言う。ようやく人と同じものを口にできるようになったんだ。生き永らえる理由こそあれ、命が尽きるはずがない」
 弥作は懸命に否定するも、お雪は寂しそうに微笑んだ。

『私は人の子ではないのです』
「そんなことはわかっている。それでもかまわないと、おれは言っている」
 お雪は相も変わらず口を閉ざしたまま、弥作をじっと見上げた。指先は動いていない。だが弥作は、もの言わぬお雪のその様子から、何をどう言葉にしたところで止められぬものがあるのだと知った。
『外へ』

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