小説

『雪花』沖原瑞恵(『雪女』)

「お雪、お前つらかったなあ」
 ふっくらとした餅がお雪の口の中で硬い音を立てた時、弥作はしみじみとそう言った。
「人と話すこともできず、うまいものを食うこともできず、お前は何を楽しみに生きてきたんだ」
 それは意図せず他人を殺めてしまったことを背負いながら生きてきたお雪にとって、辛辣な問いのはずだった。声に出してからそう気づいた弥作は慌てたが、お雪はふわりと笑んで告げた。
『弥作様でございます』
「おれか?」
 お雪はこくりとあどけない仕草で頷いて続けた。
『私は五年前にあなたを初めて目にした時、その精悍なお顔立ちに身がすくんだのです。ですから、仇として討たれる覚悟ができるまでにこれほど日が経ってしまいました』
「もう、仇などと言うな」
 弥作はお雪に身をよせる。
「お前に悪意はなかったんだ。むしろ親父を助けようとしてくれたんだろう。五年という月日はかかったが、おれの前で正直に話もしてくれた。声を出すことも食べることもできぬさだめもある。お前はもう、償いにしては十分苦しんだ」
 弥作を見上げるお雪の瞳が揺れた。ほろりと頬を伝った雫は、氷の粒となって床に転がる。慌てて衣の袖を上げたお雪を、弥作はそっと押しとどめた。
「隠さなくても良い。お前の涙は美しい」
 お雪は弥作の手をとり、その平に指を滑らせた。
『ゆるしてくださるのですか』
「いまさら何を言う」
 弥作は優しく笑う。
「あの粥の柔らかな味は忘れられない。お前はおれにとってはもう、命の恩人だ。あの世の親父や五年前のおれに恨めと迫られても、到底できない」
 なおもほろほろと氷の涙を零すお雪に、弥作は出会った時とは全く別の胸の震えを感じた。知らぬ間に詰めていた息を吐き出すと、努めて明るく振舞う。
「ほらお雪、餅も駄目なら芋の煮付けはどうだ。少しくらい凍っても、これなら食べやすいかもしれない」
 小さな芋のかけらが入った小鉢を受け取り、お雪は弥作から少し顔をそらして結んでいた唇を解く。木の冬芽がほころぶように開いた口の中へ、芋が一片、落ちてゆく。弥作の喉がごくりと音を立てるのと、芋がからころと鳴ったのは、ほとんど同時だった。
 お雪が袖で口元を隠し、肩を震わせる。こらえきれなくなったように、小さな鼻からころころと、笑い声がもれた。
 弥作は我に返り、艶めく口から目を離す。
「お雪、何を笑っている。……いや、お前、笑えたのだな」
 弥作に言われてお雪もはっと動きを止めた。それからまた、ころころと笑い始める。
「なんだ、お前案外、笑い上戸なのか」
 呆れ声を出してみせた弥作に、お雪は筆をとり、
『おかしい』
 と書いた。この小屋にはすでに、お雪の字で黒くなった紙があふれているのだが、感情を綴ったものはこれが初めてであった。弥作の小さな感動にも気づかず、お雪は喉の奥で笑いを転がす。

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