小説

『雪花』沖原瑞恵(『雪女』)

 右腕にうっすらと白い跡を残したその言葉に、弥作は声もなくただ頷くと、ふわりと軽いお雪を抱き上げて小屋を出た。
 まだ空は薄暗く、時折吹く風も冷たい。しかし確かな、湿気た土の香りがした。
「まいったな」
 弥作は目を細める。声が震えた。
「今度は春が、嫌いになりそうだ」
 お雪はただ黙って笑んだまま、弥作の腕に抱かれている。
 ちゅんと、小鳥がさえずった。
 東の空が微かに白み始める。白く漂っていた弥作の呼気が薄くなるにつれて、腕の中のお雪も、少しずつ軽くなってゆく。
「なあ、お雪」
 弥作は遠くの山の向こうから僅かに頭をのぞかせた光に、目を細めた。
「お前の声が聞きたい」
 そう言って目をやると、お雪は弥作の頬の横で、不安げに視線をさまよわせている。
「大丈夫だ」
 お雪を抱きなおし、見てごらんと促した。
「もうすぐ暖かい日が昇る。お前の息吹でも、おれは凍らない」
 弥作の強い語気を肯定するかのように、じわり、じわりと春の眩しい朝日が姿を現した。
「お雪」
「――弥作、様」
 冷気を浴びた弥作の首元が、一瞬鋭く張り詰める。弥作は鼓膜を震わせた、儚い鈴の音のような声に、ゆっくりと目を閉じた。
「もう一度、聞かせてくれ」
「……弥作様」
 お雪の声も震えている。声だけではない。弥作の衣の胸元をひしりと握る指先も、小さく揺れていた。再び弥作が目を開いた時、日に照らされたお雪の白い頬を、もう凍ることのできぬ涙が伝った。
「お雪」
 弥作は胸を渦巻く感情の正体が、紛れもない愛しさであることを悟った。腕に力を込め、去り行くさだめに慄くお雪を勇気付ける。
「怯えることはない」
 弥作は諭した。
「約束するよ、お雪。おれは次の冬も、その次も、そのまた次の冬も、お前のことを思い出そう。降り積もる雪はお前の涙に似ている」
 その時のお雪の笑みは、まるで大輪が咲いたかのようだった。そうか、涙ではないのだなと、弥作はもうほとんど姿が見えなくなっているお雪に微笑みかけた。
「雪はお前の笑みに似ている。だから舞い散るひとひらを、雪花というのだな」
 ゆっくりと、朝日が昇る。雪を溶かし、土を湿らせ、木の芽を揺り起こす柔らかな日差しだ。
 弥作はもうすっかり重みの消えた腕を下ろし、空を仰ぐ。お雪の名残に冷たく濡れた衣の袖を、春の息吹が揺らしていった。

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