小説

『文左衛門の告発』伊丹秦ノ助(『文鳥』『吾輩は猫である』 夏目漱石』)

「それは大変でしたねえ」
「『吾輩は猫である』はそれからすぐに完結した。吾輩は偶然にもそれを街角で発見して、読んでみた」
「どうでした、内容は」
「吾輩は酒に酔っ払い、水瓶に落ちて死んだことになっておった」
「何ですって」
小生は思わず千代と叫びました。猫は怒り狂って低く喉を鳴らしました。
「それはつまり、漱石は小説の中で殿を殺した、そういうことで御座いましょうか」
「そうさ、憎きへたれ文豪気取りめ」
猫は鼻を舌で湿らせながら、悔しそうにそう言いました。
「酷い男ですね。変な奴だとは薄々勘付いておりましたが、そこまでとは思いも寄りませんでした」
「まったくだ。お前も覚悟しておいたほうが良い。近いうちあいつはお前を売りに出すだろう。そうしてお前を小説の中で抹殺し、新たな犠牲の代償に、漱石文学としての更なる地位を確立していくことだろう。吾輩はお前を食おうと思っていたが、何だか話しているうちにお前が可哀そうになってきた。今回は見逃してやろう。それじゃ、いつかまた。気を確かに持つように」
そう言って猫が身を翻した刹那、その尻尾が小生の籠を勢いよく叩き、籠は木箱の上から叩き落とされてしまいました。大きな音が月夜の晩を裂きました。
「あ、すまん」
そんな声が聞こえたような気もしましたが、気が付けば猫は一目散に通りを逃げていくところでありました。
 粟の入った餌壺と水入はひっくり返り、留り木は抜け落ち、糞が縁側に散乱しておりました。小生は絶望的な気分で籠の格子につかまりながら、首を転じて書斎を見遣りました。漱石は執筆に忙しいのか、こちらを見向きもせず黙々と机に向かっておりました。小生は猫の話を思い出して、すぐにでもこの籠を出たいような衝動に駆られました。ええ。真夜中になって漱石はやっと起こしてくれましたよ。おかげで次の日は筋肉痛になってしまいました。漱石は小生のことを気の毒にでも思ったらしく、粟と水を沢山補充してくれましたが、小生は大変腹が立っておりましたから、昼までにやけ食いしてその大半を平らげ、仕事に集中しようと机に向かう漱石の邪魔をして遣りました。邪魔と申しますのは、つまり漱石が書き物をしているところへ、ちちと声を掛けて餌を催促するんです。そうして二、三度邪魔して遣りますと、とうとう漱石は書き物の手を止め、紙を破いて捨ててしまいました。ざまあ見ろってんです。
 それから幾日かが経って、小生は捨てられました。夕暮れ時、俄かに玄関の方が騒がしくなったのです。
「俺にはとてもじゃないが手に負えないよ」
漱石のこういう声が聞こえたかと思うと、やがて書斎に入ってきたのは三重吉と豊隆でありました。

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