小説

『ろうそく心中』木江恭(『赤い蝋燭と人魚』小川未明)

 ろうそく屋敷のうおきちと言えば、この界隈一の商人であり、誰からも慕われる篤志家であった。
 それでいて、その氏素性はようと知れぬ。魚吉という名も真であったかどうか。ある人によれば、若い時分にその身一つでこの港町に流れ着いたよそ者だという。それも文字通り、波打ち際に息も絶え絶えで倒れていたそうだが、かれこれ五十年も昔の話であるからして、事の真偽は定かではない。
 確かなのは、魚吉には天賦の商才があったということだった。魚吉はそれを頼りに成り上がり、ついには海の見える一等地に立派な屋敷を構えるまでになった。しかし、己の才や成功に驕ることは決してなく、物腰は誰に対しても穏やかで、孤児や身寄りをなくした老人を扶けることに熱心であった。それを見て、生き仏だと讃える者もあれば、偽善者だと罵る者もあったが、何を言われても、魚吉はただ静かに笑うばかりであった。
 そういう人柄であったから、その葬式には、界隈中の人々が駆け付けたのであった。
魚吉には、連れ合いも子もなかったので、葬式を仕切ったのは長年の友である高五郎であった。高五郎は、魚吉から遺言を預かっていた。それは、自身の葬式の段取りについての、実に奇妙な遺言だった。
 ひとつ、骸の手には、寝間に飾られていた赤いろうそくを握らせること。
 ひとつ、その骸は、重しを詰めた木箱に収め、沖へ運んで沈めること。
 ひとつ、屋敷のろうそくを全て海辺へ集め、一斉に火を放って送り火とすること。
 人の好い魚吉の、唯一の欠点といえる悪癖は、であった。広い屋敷の中には、商人仲間から買い集め、遠方から取り寄せた、何千何万というろうそくが、床の間や蔵や飾り棚に納められていた。魚吉の屋敷がろうそく屋敷と呼ばれるのも、このためであった。それでいて、魚吉自身は、決してろうそくを売り物にしなかった。
 その膨大な数のろうそくを運びだし、海辺に並べ火を灯すとなれば、うんざりするような大仕事である。それでも、故人の、それもあの魚吉の最期の望みとあらば、否やを唱える者は誰もなかった。
 こうして高五郎の号令のもと、界隈の若い衆が力を合わせて働き、女たちが炊き出しでそれを励まし――日が暮れるその寸前になって、やっと全ての支度が整ったのであった。
 言い残した通り、赤いろうそくを胸の前で握った老爺の棺が、小さな木舟に乗せられて沖へ滑り出していく。人々は腰を下ろして汗をぬぐい、振る舞い酒で喉を潤している。高五郎はそのざわめきを遠く聞きながら、若い衆と手分けして、数え切れぬほどのろうそく一つ一つに、火を灯していく。段々と増えていくろうそくの光が、夕暮れの薄闇に妖しく揺れる。
 不意に高五郎は、耳元に魚吉の声を聞いたように思った。
 ――お前さん、人魚を信じるかい。
 それは、ただ一度だけ、魚吉が己の過去を語った晩のことであった。

 お前さん、人魚を信じるかい。
 何だい、その顔は――心配しなくとも、まだ呆けちゃおらんよ。しかし、おれももう歳だからな、いつぽっくり逝ってもおかしかないな。ところがおれには、葬式を出してくれる連れ合いも子もないのだし、悪いが高五郎、お前さん、頼まれてくれないか。お前さんとは、おれがこの町に流れ着いた時から長いこと付き合ってきたが、お前さんはおれより五つばかり若いから、おれの葬式くらい仕切れるだろう。
 何だい、怒らんでくれよ。縁起でもない話だってのは百も承知だ。お前さんにしか頼めんのだよ。おれは、死んだ後の始末について、いろいろと頼みがあるんだが、それを承知してもらうには、おれの昔の話をせにゃならん。だがお前さんも知っての通り、おれはあまり昔のことを知られたくない。だから、今からする話は、お前さんの胸一つに納めてほしい。

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