小説

『ろうそく心中』木江恭(『赤い蝋燭と人魚』小川未明)

 妹の檻は、他のけだものと同じ船倉に置かれた。船底の、黴臭く暗い部屋だった。生臭い獣の息の匂い、爪を鳴らす音、鳥の羽ばたき、じっとりと湿った空気、その中で、青白い顔で唇を固く結んだの姿を、おれは今でもはっきり覚えておる。
 にいや、あたしは売られたのですね、と、は小さな声で言った。
 違う、とおれは必死に否定した。これは船の作法で仕方なくこうしているだけなのだ、お前はこれから、都の裕福な男のところへもらわれるだと言い聞かすと、は笑った。例えその話が本当でも、こんな体のあたしを、真っ当に扱う男なんかいるわけがございません。どのみちあたしは、見世物にされるでしょう。の声は淡々として、まるで一人前の女のようであった。おれは急に何もかも恐ろしくなって、違う、違うと大声で繰り返した。
 その声を聞きつけて、元締めとその腰巾着どもが下りてきた。おれがの扱いについて文句を喚きたてると、奴はおれを殴り飛ばして、まだわからんのか、この間抜けと、おれを見下ろして嘲笑った。おれはそれでようやく、妹の言うことが正しいのだと知った。呆然とするおれに桶一杯の海水を浴びせて、連中は船倉を出て行った。
 まだ冬には間がある季節だったが、湿っぽい倉はただでさえ肌寒くてなあ、濡れ鼠のおれはすぐに震えが止まらなくなった。だがそれは、寒さのせいばかりではなかった。おれは、自分の先行きに絶望していた。妹はもちろん、おれ自身もきっと、人買いにでも売り飛ばされ、死ぬまで惨めに働かされるに違いなかった。
 おれは泣いた。あっさりと騙された己が情けなく、これからの奴隷暮らしが恐ろしかった。おれはその場に身を伏して、ちくしょう、ちくしょうと、恥ずかしげもなく大声をあげて泣いた。そうしているうちに、不意に、頬に冷たいものが当たった。
 が、檻の際まで身を寄せて、精一杯手を伸ばして、おれの涙を拭っていた。
 おれの頬に触れた指先は、見る見るうちに真っ赤に腫れた。けれども、は手を引っ込めなかった。それどころか、人の涙は熱うございますね、と微笑んだよ。
 そして突然、の体がぐんにゃりと歪んで、溶けて消えてしまうのを見て――おれは、悲鳴を上げた、ように思う。
 その時のことを、おれはあまり覚えていないのだ。気を失ったのか、眠ってしまったのか――どれほどの間、そうしていたのかもわからん。ともかくおれは、ぞっとするような冷たさに体中を包まれて、目を覚ました。
 が、おれの上に覆いかぶさって、じっとおれを見つめておった。黒々と長い髪や、白い腕や、ぬるりとした尾まで、全身びっしょりと濡れていた。そこから滴り落ちる雫や染み出した水たまりのせいで、おれの体は氷のように冷え切っていた。
 陸の上では、青白く儚いばかりであったの肌は、海の水に濡れて、真珠貝のように艶やかであった。虹色の尾の、鱗の一枚一枚が、薄闇の中でも眩しいほどにきらめいていた。小さく開いた赤い唇の奥には、小さく鋭い牙が覗いておった。
にいや、と、は囁いた。お許し給う、隠していたわけではないのです。先ににいやに触れた時、あたしは生まれて初めて海の水を知りました。すると胸がひどく熱くなって、気が遠くなって――そうして気がつくと、あたしは海の中におりました。それであたしは思い出したのです。人魚は、海の水を辿って、好きなように海を渡れることを。
にいや、あたしは赤子の時に拾われてからずっと、海を知らずにおりました。だから、故郷のはずの海を、ひどく恐れておりました。けれども、いざ身を浸すと――海は、懐かしゅうございました。体が軽くて、とても満ち足りた心地でございました。息苦しくて、惨めな思いばかりした陸とは、まるで違いました。
 もちろん、爺様と婆様には、深く御恩を感じております。けれども、陸を無様に這いずり回り、指が痛むまでろうそくを描いて、来る日も来る日も詰られ打たれるのは、あたしとて苦しく、恨めしゅうございました。それでも、他に行く場所なぞないと思えばこそ、堪えておりましたけれど――海に戻り、この自由な心地を知ってしまうと、陸での辛かった暮らしに段々と怒りが湧いてきたのです。あたしは、爺様と婆様に会いに行きました。何か一言、恨み言でも言ってやらねば気がすまぬと、そう思うたのです。
 お二人は、あの家におられました。婆様は、下のもので汚れた布団に寝かされて、爺様は、腰縄で柱に繋がれていました。椀に一杯きりの芋粥が床に置かれておりまして、お二人はそれを啜っておられました。あたしが行くと、爺様は、娘さん、ろうそくが欲しいのですか、とにっこり笑いました。

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