小説

『檸檬を持って大海原へ』薮竹小径(『檸檬』梶井基次郎)

 春の嵐で桜が散り、ゴールデンウィークにあと一週間と迫った日のことだった。久しぶりに雨が降り、空気がジトジトと湿り、髪の毛が重たく感じた。黒板を向いて話す教授の声がかすかに聞こえてくる。マイク使えよ、と誰かが小さくぼやいた。隣の席の友人が本を読んでいる。カーバ―を裏返して読んでいるので、何の本かわからない。
 「なんて本?」と小声で聞くが応答がない。仕方がないので覗き込もうとすると、彼の耳にパチンコ玉が仕舞われているのを見つける。それを見て、大学に入ったばかりのころ初めてパチンコ屋に行き、おじさんが彼と同じように耳にパチンコ玉を入れていたときのことを思い出した。
 「あの球さ、もし耳の奥に入ったらどうするの?」とその時パチンコ屋に連れていってくれた友達に聞いた。
 「入らないだろう」とその友達は喧噪に負けないように大声で言った。
 「もし、だよ」
 「さあ」と友達は少し考えてから言った。「飛行機乗ったことある?」
 「うん、高校の修学旅行で」
 「耳がぼーっとするよね」
 「うん」
 「その時、鼻をつまんでふんと息を鼻に出さなかった?」と言ってふんっと友達は実演してくれた。
 「あー、やったかも」
 「だろ、それだよ」
 「それ?」
 「うん、それで耳から空気を出して、球を飛ばすんだよ」
 「ほんとかよ」と二人で笑った。
 いま、横で本を読んでいる友人の耳にはまっている球を強く押せば、それが真実かどうかわかるかも知れない。ゆっくりと友人に向かって手を伸ばす。すると友人がこちらを向いて、球を耳から抜きながら「なに?」と聞いた。慌てて方向転換して本を指差して聞いた。
 「なんて本?」
 「ああ、檸檬」
 「レモン?」
 「梶井基次郎の」
 「ああ」
 「読んだ?」
 「うん、教科書で」
 友人は再び耳に球を詰めて本を読み始めた。
 黒板を見ると、いつの間にか先ほどまでびっしりと書かれていた文字はもう消されており、教授は教壇の後ろに座り本を音読していた。キョロキョロと他に受講している生徒を見渡してみる。誰も先生の声なんて聴いていないような気がする。マイク使えよ、と言った人はきっとこの中でも真面目に授業を受けている人なんだと思う。死んでしまえ、と小さく呟いてみる。「え?」と友人が聞き返してきたので、ふたたび彼に向かって、死んでしまえ、と言ってみる。なんでだよ、と友人は笑って教授の方を見てから、本を読み始めた。
 ふっと後ろを見ると一つ後ろの席に大きな鞄があった。たしか座る時にはなかったはずだ。どうにもその鞄が気になる。大きくて黒い四角い鞄だ。こんな鞄で大学に来る人もいないだろう、と思う。
 「――、つまり」と教授の言葉がいきなり鮮明に聞こえてくる。驚いて教授の方を見る。
 「徒労。主人公はこの小説に出てくるみんなのことを徒労だと思っているんです」
 ――徒労。電子辞書を使って調べてみる。無駄な骨折り、と声に出してみる。おれ達みんな骨折り損、と呟く。なんか少しリズムが良いので、頭の中でエンドレスする。
 遠くで雷が鳴った。黒板と反対側にある窓から外を見ようと振り返ると、再び鞄が目に入った。この鞄はなんだろうか、と考えてみる。よくテレビドラマで大金を入れるような鞄だ。まさかこの中に大金が――、と考えてみるが馬鹿らしくなって辞める。この鞄がここにある意味はなんだろう、と考える。いくら考えても分からないので友人に聞く。
 「この鞄なんだと思う?」
 「次の授業受ける人が席取りしてるんじゃない」と耳からパチンコ玉を取り出しながら答える。

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