小説

『子供心』伊藤円(『浦島太郎』)

 虫とり網を背中にくくり、頭は似合わぬカンカン帽。藁の間をすり抜ける、日差しは額を汗ばます。ころり、と滴が垂れ落ちて、じゅうう、と地面に穴開ける。陽炎が揺れている。ずっと先に。陽炎が消えていく。踏みつけた足に。ふっ、と過ぎさる緑の匂い。たっぷり水を吸い込んだ、土と葉っぱと虫の匂い――。
 くにゅう、と柔らかい地面を踏んで、太郎は思わず微笑んだ。じり、じり、蝉の鳴き声が太郎を歓迎するようだった。のし、のし、わき目もふらずに向かったのは、毎夏、通っているクヌギの木。虫とり網を取り外し、首を伸ばしてきょろ、きょろ、と、
「あっ!」
 思わず声を漏らして、太郎は慌てて片手で口を押えた。枝の付け根の穴ぼこの隣に、大きな、大きなカブトムシが居た。自分の身長がこのくらい、虫とり網がこのくらい、それから腕がこのくらい。量って太郎は頬を膨らませた。カブトムシと自分の距離は、ばっちり射程範囲に入っていた。
「やっ!」
 ばさっ、と網を被せる。ずりっ、とそのまま剥がしていく。ぼすっ、と嬉しい重量が竿に伝わり、くるっ、と竿を回転、慎重に、慎重に下ろしていく。折りたたまれた網を開けば、そこにはつるりと黒光りする、夏の宝石がひとつ……。
「でかいぞ、でかいぞ!」
 ツノを掴んで太郎はカブトムシを持ち上げた。じた、ばた、脚を蠢かせ、ふる、ふる、指先が揺れる。かりんとみたいにかちこちの外殻。まんじゅうみたいにとっぷり太った身体。前に捕まえた『オーゼキ』より一回りも、二回りも大きいカブトムシ。並べて調べもしないで確信する、この夏一番の大物。
「すごいぞ、すごいぞ!」
 一切の傷をつけないよう、注意深く虫かごに入れる。ぱちん、と扉を閉めると、太郎は両手で虫かごを持ち上げた。ヨコヅナ、ブルドーザー、キング。かち、かち、捕まろうが尚逞しいカブトムシを眺めながら太郎は、どんな名前が相応しいか考えた。
「ヨシ、お前の名前は『トーサン』だ!」
 名付けると一気に愛着が湧いて、太郎はうっとり『トーサン』を眺め続けた。もう、他の虫を捕まえる気もなくなるくらい満足した。早くウチに帰って相撲を取らせたい! 太郎は、慎重に虫かごを下ろした。虫とり網を背中に戻し、カンカン帽を深くかぶり、さあ帰ろう! 振り返ってその瞬間、ピタッ、と太郎は足を止めてしまった。
「うっすのろ! うっすのろ!」
 砂場に、一人の少年が蹲っていた。三人の男の子に囲まれて、蹴ったり、砂をかけられたりしていた。虐め。一目で解る光景に、太郎は駆け出していた。
「やめろっ!」
 少年たちの間に割り込んで、太郎は怒鳴った。すると虐めている方の少年の一人が、
「なんだお前!」
 と太郎を睨みつけた。手には砂が握られて、ぽろ、ぽろ、地面に落ちている。投げつけられるかもしれない、不安になったが太郎は構わず、
「どうしてこの子をいじめるんだ!」
 勇敢に叫んだ。
「ノロいからだよ! きたないし! 服はぜんぶお下がりで、鼻水まみれ!」
 くす、くす、少年たちは笑いだした。それに太郎は奮然とした。
「それがなんだ! こんなことしてよろこんでるオマエらの方がよっぽど心がきたない!」
「なんだとっ!」
 瞬間、少年が掴みかかってきて、しかし、太郎は巧みにその腕をかわして少年の懐に入り込んだ。背中とお腹をくっつけて、あとは、ぐるん、とテコの原理。どんっ、と鈍い音がして、
「あいたっ!」
少年を砂場に投げ飛ばしてやった。
「この子をばかにするやつはゆるさないぞ!」
 太郎はこれまで以上に声を張り上げた。少年たちは根気強く太郎を睨みつけていたが、やがてその剣幕に負けて、投げ飛ばされた少年がよろ、よろ、たまりに戻ってくると、
「……もういいよ、つまんねっ、かえろっ」
 と、早足にその場を去っていった。三つの背中が公園を出るのを見届けると、太郎はくるりと振り返って、少年の傍に膝をついた。

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