小説

『子供心』伊藤円(『浦島太郎』)

「う、うん」
 動揺していてもしょうがない、意を決し太郎は止めてしまった足を踏み出した。開かれたドアの横を抜けると、
 もわっ、
 と、先から漂っていた漬物のような匂いが濃厚になった。そうか、ここから匂っていたのか。反射的に太郎は鼻をつまみそうになったが、人の家に来てそんな失礼はできない、と首を伸ばして堪えた。そして、室内に視線を伸ばして、ピタリ。再び、足を止めてしまった。
「さ、あがってあがって!」
「あ、う、うん」
 言われて太郎は我に返った。呼ばれるままに前進し、兄弟たちの靴が乱雑に転がる玄関の、かろうじて見えた灰色の部分に爪先を浸し、ず、ず、と靴二足分の隙間を開けるとやっと、靴を踵から外した。虫とり網を、帽子を、傍らに置いて、籠はぶらさげたままで、
「お、おじゃましまぁす」
 家に足を踏み入れた。畳はずうっ、と不穏に沈み、後ろ足を綺麗に揃えると、それにはあまり沈まず何となく安心した。そして、ゆっくり辺りを見回す。中央に円形のテーブル、その上に吊り下がる蛍光灯、紐は長くテーブルに着地する寸前。右の壁にテレビ、たぶんテレビが一台。見た事のない、赤い箱型。対面に箪笥が一棹。重みに下の畳が沈んでいる。その横に落書きまみれのカレンダーがはられている。画鋲に穿たれた砂壁の欠片が、ぼろ、ぼろ、畳に、いや、部屋の至る所に散らばっている。ざっ、と調べてモノはそれだけ。しかし部屋は広くはない、というか、狭い。奥には仕切り扉もなく台所が続く。それを加味したって、太郎の、自分の部屋と同じくらいの面積しかない。それでも自分の部屋の方がよっぽどスペースがある。シンクの上に吊られた底の焦げた鍋。回っていない換気扇のギトギトした油汚れ。何だかよく解らない極彩色のタペストリー。たぶん、祖父の白黒写真。でこぼこの壁。ささくれだった畳。それから、壁に並んで固まった、兄弟たちのじっとりとした視線。そんなものが、部屋の空気すら圧迫するよう……。
「太郎くん、ほら、麦茶!」
 気がつけば亀田がコップを片手に太郎の目の前にいた。
「あ、ありがとね」
「ほら、座ってよ、座ってよ!」
 促されて、太郎はテーブルについた。ちら、と見やれば兄弟たちはやはり太郎を見詰めていた。亀田は対面で、にこ、にこ、太郎の様子を窺っていた。目線が低くなると、部屋の狭さが強調されるようだった。亀田や兄弟はともかく、ここに父や、母がいて、いったい、どうやって過ごしているのか。いったい、どうやって眠るのだろうか。
「さ、エンリョはいらないよ!」
「う、うん」
 急かされて、太郎はコップに口をつけた。こくん、と飲んだ一口は、異様に薄かった。麦茶と言われなければ、不味い水と判断していたくらいだった。
「……うん、ありがと。おいしいよ」
 しかし、太郎は言った。もてなされて苦言を呈する程、失礼なことはないと思った。
「ニーチャン、ボクものみたいなぁ」
 兄弟の端っこが言った。
「しっ! 今は太郎くんが飲んでるんだ! まってなさい!」
 兄弟は、唇を尖らせた。が、案外従順だった。太郎はそれを不思議に思った。麦茶くらい飲ませてやればいいのに。
「いいよ、ボクはもうのんだから、この子にあげなよ」
「だめだめ! これは太郎くんの分なんだ!」
 興奮したような亀田に、太郎は何となく事情を察した。用意された麦茶は、少ないのだ。その貴重な一杯が、これなのだ。
「いいよ。これ、あげて。ぼく、もう、お腹いっぱいだからさ」
 太郎は亀田にコップをずらした。お腹いっぱいだなんて嘘だったが、それより何より、兄弟の目線が居心地悪かった。
「ニーチャン、ほら」
 亀田は渋い顔をしたが、やがて、
「太郎くんがやさしいから飲めるんだぞ、これはトクベツなんだぞ」
 と言って、兄弟にコップを手渡した。その瞬間、わっ、と兄弟たちが群がって、コップの奪い合いを始めた。一人が飲み、次の一人が飲み、その忙しなさにやがて、ごろっ、とコップが誰かの手からあぶれてしまった。どぼっ、と畳を濡らしたそれに太郎はふと背中を固めたが、
「もう、急ぐからそうなるんだぞぉ」
 意外と亀田は怒らなかった。腰を上げて冷蔵庫に向かうと、内側に薄黄色の液体に波打った大きな瓶を抱えて戻ってきた。太郎は拍子抜けしたが、
「ウチ、コップが一個しかないんだ!」
 と亀田に微笑まれて、くっ、と息を詰まらせてしまった。とぽ、とぽ、新しい麦茶を注ぎ始めた亀田から、何故だか目を逸らしてしまった。
「アッ! カブトだ!」

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