「新入りの文鳥というのはお主のことか」
とね。小生は寝惚けておりましたから、始めのうちは何だか意味のわからないことを呟いて適当に促しておいたのですけれども、どうもその声に聞き覚えがある。しわがれた、如何にもお年を召したご老人といった印象を受けました。そうだ、幾日か前に箱の内側で聞いた、ほら先程お話ししましたでしょう、あの声の主だと思い当たりましてね、それでうっすらと目を開けてみますと、小生と籠を隔てて目と鼻の先に、巨大な影がそびえているんですね。一目で見てわかりましたよ、猫だって。月光の中に浮かび上がる猫の形相は、たいそう恐ろしいものでありました。茶色い毛をした汚らしい浮浪猫で、小生の鳥籠をべろんべろん舐めているんです。え、なんで舐めていたのかって。それはね、大変気味の悪い話なんですが、竹の格子に付着した小生の羽毛を舐めるためなんですよ。つまり、小生を獲物として狙っているということです。おお嫌だ、考えただけでも身の毛がよだつ。
猫はひとしきり籠を舐め終わると、美味なり、と満足げに呟いて今度は小生を鋭い目で睨みました。蛇に睨まれた蛙の気持ちが痛いほどよくわかったのは、後にも先にもあの時一度だけです。足が固まって動けないんですよ、本当に。食われる、と思ったのも束の間、猫はふっと目力を抜いて、こう語りかけてきました。
「吾輩は猫である。名前はまだない」
何処かで聞き覚えのある台詞だ、なんて思いながら小生も一応挨拶を返しました。
「小生は文鳥の文左衛門と申します。生まれは愛知県弥富市、東海道をはるばる牛込までやって参りました。なにとぞよろしくお願い申し上げます」
「や、ご丁寧にどうも」
「失礼ながら、殿方は何処よりここへいらっしゃいましたか」
「吾輩か。何処で生まれたか頓と見当がつかぬ。何でも暗薄いじめじめしたところでニャーニャー泣いて居たことだけは記憶して居る」
これも何処かで聞いたような気がする。小生がハハア左様で御座いますかと答えたところ、「苦沙弥の奴はどうだね」
と聞き返されましたので、少々返答に窮しておりますと、猫は鼻で笑って書斎のほうに目を移しました。
「人間は信用できん。奴らは極めて獰悪な生き物で、その中でもあいつは特に質が悪い種族だ。自分じゃ何にも出来ないくせに、我々下等生物に対しては嫌に威張っている」
「と、言いますと」
「苦沙弥、即ち夏目漱石は以前、吾輩の主人であった」
小生は驚きました。この汚らしい猫が漱石の飼い猫であったとは到底考えられませんでしたからね。漱石なら、もう少し賢しそうな猫を飼ったほうがよく似合うだろうと、素直にそう思いました。
「以前、というのは、つまり、」
「つまり、捨てられたということさ」
「何故捨てられたのです」
「知りたいか」
「ええ、是非」
猫は狭い額に皺を寄せてため息をつき、それから話し始めました。