小説

『文左衛門の告発』伊丹秦ノ助(『文鳥』『吾輩は猫である』 夏目漱石』)

 そのうちにもそもそと主人の起き出した気配がして、二、三度地面が震動し、小生を覆う暗闇の天井部分が開かれました。籠ごと持ち上げられて、小生はようやく明海に出ることが出来たのです。目の前にはこじんまりとして吹き荒れた庭が広がっておりました。そう、そこは漱石の家の縁側だったのです。
 感心しながらぐるりと首をねじると、漱石がこちらを覗き込んでおりました。口髭はばらばらで、後ろ髪が避雷針の如く立っている上に、目がすっかりむくんでいて、まだ寝足りないと言わんばかりの顔をしておりました。ええ、そりゃもう酷い有様で。でもね、その時は小生の方でも夏目漱石と対面しているというだけで興奮しておりまして、別段可笑しいとも思わなかったんですよ。今考えてみると、なんて自分は愚かだったんだろうと腹が立ちます。
 かくして小生の夏目邸での生活は始まったわけです。漱石は日課で、毎日伽藍のような書斎の中で小説を書いているようでして、小生はそれを硝子戸越しに遠目で眺めておりました。文鳥は耳が良いのですけれども、書斎には誰も入れないことになっているようで、さらさらと漱石の動かすペンの音が殊更に寂しく聞こえることさえありました。小生はやはりその、弱々しい動物ですから、騒がしい子供たちの中にいるよりもこのような静かな場所のほうが好きでありました。ところが、やがて小生は漱石の本来の姿を知ることになるのです。居眠りしているあなた、ここからが肝心ですよ。
 その日の朝は、庭に降りた霜が星のようにきらきらと瞬いておりました。漱石はまた十時ごろに起きてきて、書斎でいつも通り仕事をしておりました。書き物は大分はかどっていると見えて、その背中には如何にも文豪らしい雰囲気が漂っており、とここでは仮に表現させていただきますが、なかなか威風堂々たる様子でありました。小生はしばらく庭の霜とにらめっこをして戯れておりました。
昼ごろになると漱石が縁側に出て来ました。小生は餌でもくれるのかと期待していたのですけれども、どうもそうではないらしい。籠のすぐ外に腰を下ろして、何だか不思議そうな顔をしながら小生のことを覗き込むんです。おおかた創作が行き詰って考え事でもしているのだろうと思っておりますと、出し抜けに漱石がこう叫びました。
「おいっ、誰かっ、文鳥の足が一本足りないぞっ」
どうやら漱石は、小生が留り木の上で片足立ちしているのを、てっきり足を猫か何かに食いちぎられたとの勘違いを起こしたようでありました。いや、何故片足立ちしていたのかと言いますとね、留り木にずっと摑まっていると、足が冷えてかじかんでしまうんですね。ですから右足と左足を交互に折り畳んで、腹の羽毛の中に隠して暖めるというわけです。
「どうなさいました、旦那様」
たちまち下女がやってきました。漱石は下女をはったと睨めつけ、顔を真っ赤にして激しく罵倒し始めました。
「貴様、文鳥の世話を怠ったろう。見ろ、この文鳥の足は一本しかないじゃないか。」
「は、あの、旦那様」
「文鳥の足は普通何本あるんだ。え。答えろっ」
「二本、です」
「恥を知れっ、この馬鹿者が」
漱石の口から飛ぶ唾が下女の顔にも、小生の上にも降りかかります。小生はさすがにこの無辜の下女が気の毒になって、留り木の上に足を二本とも出して遣りました。すると下女が目ざとくそれを発見して、
「あの、旦那様。文鳥の足は確かに二本あるようですけれど」
それを聞いた漱石はもう一度籠を覗いて、小生の足がきちんと二本揃っているのを見つけました。もうね、その時の間抜けな顔の可笑しいことと言ったらありゃしませんでしたよ。
 或る日の晩、冬は寒くってこおろぎも鳴きませんから、あんまり静かすぎてついうたた寝をしておりました。確か少々よだれも垂らしていたような記憶がありますが、そんなことはどうでも良くて、不意に真正面から声を掛けられたのです。

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