「この漆はね、先生、日向に出して曝しておくうちに黒味が取れて段々朱の色が出て来ますから、そうしてこの竹は一返善く煮たんですから大丈夫ですよ」
こう三重吉が言うんです。何が大丈夫なんだと漱石が聞き返しますと、今度はまあ鳥を御覧なさい、こんな綺麗な鳥はまたといませんと全く要領を得ないことを言います。小生はその辺りから何だか眠くなってしまいまして、どうも記憶がありません。そうして気付くとぬくぬく暖かい暗闇に包まれておりました。実は小生、暗闇が大の苦手なものですから、当初は少々焦りました。壁も底も天井もない暗闇なんて恐ろしいでしょう。けれども目が慣れてきますと、籠が箱か何かで覆われているのだとわかり、ようやく安心することが出来ました。
それに、声がするんです。小生の真横で、しわがれた声がこうぶつぶつと呟いているんです。声はこう言っておりました。
「苦沙弥の寝坊には呆れたもんだ。もう朝の八時をとっくに過ぎているというのに、まだ起きない。いや、起きようとはしているのかな。ただ身体が言うことを聞かない。うん、そういうことだな。いずれにせよだらしのない奴であることには変わらない。天下の国民作家が聞いて呆れるわい」
独りごとの主が誰だか、この時点ではまだ知りませんでしたが、小生はこれを聞いて或ることを思い出しました。昔小生の友達で、白文鳥の琥珀君という子がおりました。琥珀君は根っからの文学好きで、夏目漱石という作家について小生に話して聞かせてくれたことがあります。
琥珀君はこんな風に言っておりました。
「夏目漱石という男はね、大したものだよ。これは彼の長編小説なんだが、面白いことに、主人公が猫という設定でね。ご覧、この出だしを。吾輩は猫である、名前はまだない、とこうあるじゃないか。今までこんな小説は見たことがないね。全く持って奇抜な発想だ。彼はいずれ新しい文学体系の第一人者として、後世にその名を深く刻み来むだろうよ」
小生は琥珀君が何処かから勝手にくすねてきたその小説を不器用にめくりながら、そこに苦沙弥先生という妙な名前が出ていたのを、思い出しました。声の主が言った苦沙弥とは、つまり夏目漱石のことではないのか。それでは夏目漱石は何処にいるのかというと、ひょっとすると火鉢にもたれて座っていた、あの小生の新しい主人と思われるお方ではないのか。そう思いましてね。小生は急に背筋がぞくぞくしましたよ。小生が夏目漱石の家で暮らしているなどということをもし琥珀君が知った暁には、歯ぎしりして悔しがるだろうなあと。嬉しさのあまり心も身体も舞い上がってしまいまして、つい留り木の上に飛び乗りながら千代と一声鳴いてしまったんです。そしたら声が言いました。
「そういえば文鳥が一羽いるんだったな。昨日こっそり台所から忍び込んで見てみたけれど、なかなか肉付きが良い。まあ機会があれば、だな。さて、今日は天気も良いことだから白君の家へでも遊びに行ってみるとするかな。おや、あんな所に羊羹の箱がある。苦沙弥め、また鏡子さんに隠れてこっそり買ったな。懲りない奴だ。丁度よく硝子戸を施錠し忘れているぞ。それは吾輩が貰って行こう」
と、地面が震えたかと思うと、今度は上の方で同じ声がして、
「うん、白君もきっと喜ぶぞ」
と言って去っていく気配が感じられました。小生はこの声の主が、「機会があれば」小生に何をしてくれるというのかいささか気になりましたが、あとはずっと黙っておりました。