小説

『ろうそく心中』木江恭(『赤い蝋燭と人魚』小川未明)

 にいや、村長様は、約束を違えられたようですね。
 結局、あたしは、何にも言えやしませんでした。あたしは、赤いろうそくを爺様から頂いて、祠にお供えいたしました。それから村長様の枕元に行き、こう言って参りました。約束を違えた報いに何が起こるか、今宵の海をよく見やれ、と。
 にいや、あたしはこの船を沈めます。嵐を呼んで、あの村から見える限りの、あらゆるものを沈めます。船も生き物も、人も。そうすればきっと、村長様はすっかり魂消て、爺様と婆様をきちんと世話するでしょう。もしまた怠けたら、同じように戒めてやります。もちろん、沈めた分だけ、人も大勢死ぬでしょうけれど――人魚は、けだものですから。情けなぞ持ち合わぬけだものですから、そんなことで心は痛みませぬ。だから、大丈夫です。
 が黙ると、倉はしんと静まり返った。同じ倉にいるはずの獣や鳥も、人魚を恐れて息を潜めていたのかもしれん。聞こえるのは、おれの歯の根の鳴る音だけだった。寒さはいよいよ増して、手足はすっかり痺れて動かんかった。
 お前は、おれのことも沈めるのか。おれは、ろれつの回らぬ口で、やっと尋ねた。は、おれの目をじっと見つめて答えた。にいやが村に戻って、爺様と婆様を守ってくださるならば、あたしにいやを村までお送りいたします。
 おれは――出来んと答えた。
 非道であろう、阿呆であろう。爺様と婆様のために、おれは戻らねばならんとわかっていた。戻ると答えねば、きっとこの場で海に沈められるのだろうというのもわかっていた。それでもおれは、例え嘘でも戻るとは言いたくなかった。あの村に戻ったら、二度と外に出られん気がした。奴隷暮らしよりも、死ぬことよりも、それが恐ろしかったのだ。
 は、笑ったよ。夜中に一人でろうそくを描いていた時と同じ、寂しげな顔であった。
 そして、おれの首に両腕を回し、濡れた体をおれに押し付けて、耳元で囁いた。ならばにいや、あたしと共に、海に沈んでくださいまし。ずっとずっと、あたしの傍に、いてくださいまし。
 途端に、おれの体は水に投げ出された。上も下も薄暗く、水面がどちらにあるのかもわからん。水は痛いほどに冷たくて、体が動かんかった。
ああ、おれは死ぬのだなあと思った。の腕がするすると体に取り付いて、おれをきつく抱き込んだから、いよいよ身動きがとれなくなった。それでもおれは、必死で首を横に振った。
出来ん。村に戻ることも、お前の傍にいてやることも出来ん。
 おれは――生きたい。自分の思うように生きたい。それは、許されんことだろうか。
 だんだんと気が遠くなり、ぼんやりとした心地の中で、の声が聞こえた。
 ああ、にいや、お気持ちはようわかりました。あたしも、もう陸には戻れませぬもの、と。
それでは、思うように生きたそのあとで構いませんから、どうかあたしのもとにお帰りくださいまし。ずっとずっと、お待ちしておりますから――。
 次に目を開けた時には、おれはこの町の海辺に流れ着いておった。懐に、覚えのない真っ赤なろうそくが入っていた。その前の晩は、ひどい嵐だったそうだ。いくつもの船が、藻屑と消えたというからの。
 おれはこの町で商いを始めた。少しは儲かるようになると、爺様と婆様に、便りを添えて金を送った。返事は、一度も無かった。そしてしばらく前に、二人をこちらに呼び寄せようと心を決めて、村に使いを遣ったのだがな、村は、波に呑まれて無くなっておった。その晩は、村に大きな鬼火が見えたそうだよ。
 なあ、高五郎。おれは、村を出たことを悔やんではおらん。だが、後ろめたいとは思っておるのだ。そのせいだろうなあ、孤児を見ると、餓鬼の頃の自分や妹に見える。爺婆を見れば、育ての親の顔に見える。それで、ひどく疚しい思いになって、何かせんではいられんようになる。おれは、善人などではないのだよ。育ての親を見捨て、すがる妹を足蹴にして、一人で逃げ出したのだから。それでも、後悔はしておらん。おれは商人として、己の思うように生きることができてよかったと、そう思っておる。

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