小説

『Hoichi~芳一』八島游舷(『耳なし芳一』(山口県下関市))

 蒸し暑い夏の、金曜日の夜のことだ。《アミダ》でライブをした後、佐竹さんは用事で出かけた。坊さんはもうとっくにやめたというのに、どうしてもと頼まれて法事に呼ばれることが今でもよくある。人柄なんだろうか。
 その夜は大学生バイトの瑤子もいないので、俺はひとり店番を任されていた。
 もう深夜近くだったろう。店は午前一時まで開けているが、客は一人しかいない。テーブルで静かに飲んでいるようなので、俺はなんだか小便みたいな匂いだなと思いながらカウンターの中でハイボールを作って勝手に飲んでいた。酔いが回り始めたが、どうせここには、スコッチとバーボンを間違えたって文句を言う客は来ない。
 気分がよくなって新しいラップの韻(ライム)を考えていたら、自然に文句をくちずさんでいた。
 客が近寄って声をかけてきた。
「お前、芳一というんだろう。なかなかいい歌を歌うじゃないか」
 低く、奇妙にしゃがれた声だった。
「明日ある場所でライブをしてくれ」
 俺はしばらく黙っていた。あまりに、横柄な言い方だったからだ。
「返事はどうした」
「いやですよ」
「まあ聞け。悪い話じゃない。広い会場だし、ご覧になる方がたはたくさんいらっしゃる。とても……高貴な方々だ」
 ――高貴? だったらどうだっていうんだよ。
「ますますお断りです」
「そういう方たちに名を売るいい機会だぞ」
「別に名を売りたいわけじゃないんで」これは嘘だった。
 だが、男はしつこかった。関わり合いにならないほうがいい、本物のギャングスタじゃないのか?という気もする。だんだん逆らうのが怖い気もしてきた。
 一晩だけならということで、俺はついに根負けして承諾した。正直言えば、ライブを依頼されるのは嬉しかった。それに、高貴な客ってだれだ?という好奇心もあった。

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