小説

『歳蕎麦』藤咲沙久(『時蕎麦』)

 こんな蕎麦屋、蕎麦自体もうまいわけがない。勘定を安く誤魔化すならまだわかる。そこを巧みな話術で多めに支払っていくとは、いったい全体どういう意図があるのだろうか。
「親父、なあ親父よ。今は何時だい」
「四つだよ。変な客だな、食わねぇなら帰ってくれ」
 店主が苛立ちをみせたので、弥兵衛は慌てて首を引っ込めた。どうやら怒らせてしまったらしい。しかし、それが弥兵衛の好奇心をさらに刺激した。
(ははあ。どうやら時を尋ねるのが大事なんだな)
 弥兵衛の考えはこうだ。不味いだろう蕎麦はきっと、先の客の目的ではなかった。何か情報を得るための合言葉として時を尋ね、店主が応えて何かを伝え、何かの意志疎通を経て不可思議な手段で情報料を払う。弥兵衛は何か手順を誤ったか、或いは何か必要な知識か資格がなかったため、店主が応えてくれなかったのだ。
 “何か”まみれの推測に、弥兵衛はうんうんと頷いた。これは大変興味深い話だ。もしも隠れた事件であるなら、岡っ引きとしても評価されるに違いない。可愛い可愛い娘に、父ちゃんはすごいんだぞ、と言ってやれる。
 同じように蕎麦を食って二十文を渡すことは出来るが、ただやるだけで得るものがなければ払い損だ。弥兵衛はまず、この「何時だい?」に込められた意味を探ることにした。彼を応援するかのように、ぺたんこの腹がグゥと鳴った。

 翌日、手始めに嫁のお初に声を掛けた。
「何時だって? あんたが家を出る時刻だよ。ほら、のらりくらりせずに真っ直ぐ親分さんのとこ行きな。寄り道するんじゃないよ!」
 対した反応は得られなかった。
 昼時、仕事の報告のついでに親分にも聞いてみた。
「何時だって? お前、飯を食ったばかりだろう。まだ八ツ時には早いぞ」
 ちなみに八ツ時には親分の奥方が心太をくれた。

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