小説

『古寺の怪』A. Milltz(『耳なし芳一』(山口県など))

弥太郎は飛び起きた。なにがなんだか皆目わからないが、その呼び声の禍々しさだけは本能的に感じ取った。周りを見る。と、隣に寝ているはずの岩助がいない。芳一は…。芳一は、暗闇の中、座禅を組み念を唱えている。そして半裸の身体全体に、びっしりとなにかが書き込まれている。あの模様は…。いや、あれは経文だ。そう気付いた時、弥太郎の背筋に冷たいものが流れた。
「芳一! 芳一!」
野太い声が容赦なく近づいてくる。太い足音。足音に加えて聞こえるカツカツという硬質の音。あれは…。鎧の擦れ合う音だ。
「和尚、これは一体…」
芳一は応えない。
「和尚、岩助は?」
芳一は読経を続けながら、首を横に振った。
「芳一! 芳一!」
とうとう戸の前まで来た。そして壊れんばかりに戸が叩かれる。
「芳一! 芳一!」
ガタン。荒々しく戸が開かれた刹那、芳一が大喝した。そしてやにわに立ち上がり、弥太郎を力任せに引っ張って壁の隅に押しやった。
「板の割れ目から出ろ」
果たして、その板壁にはなんとか身を捻じ込めそうな割れ目がある。必死の思いで身を捻じ込むと、途中で着物が何かに引っかかった。
「待て」
芳一の両手が素早く弥太郎の身体を巡り、着物のつっかえが取れた。夢中で外に転がり出た弥太郎に芳一の声が飛んだ。
「決して振り返るな」
 暗がりの中、あっちに躓きこっちに転びながら、弥太郎は走った。どれだけ逃げても、
「芳一! 芳一!」
鎧武者が追ってきた。
 どれだけ走っただろう。弥太郎が精も根も尽き果てた時、この小屋が見えたという。

 囲炉裏の炎が音を立て始めた。水を使って身体を拭い、熱い白湯を一杯飲むと、ようやく人心地が付いてきた。
「失くしたものはあるか?」
それまで黙って世話を焼いていた主が、口を開いた。
「はて?」
旅の身とはいえ、荷物など元よりない。あるのは幾ばくかの金…。ハッとして腹巻の中を探ると、果たして、金はあった。ただ…。
「どうした?」
「…半分しかない」
主は唸った。しばし考え、やがて自身も白湯を飲み干した。
「亡霊なら金は盗らんで命を獲る。追い剥ぎなら命は獲らんが金を根こそぎ盗る。おまえさん、さては…」
主はニヤリと笑った。
「狐か狸に化かされたんじゃ」
「いや、あれは確かに…」
「おまえさんは運が良い。もし鎧武者が出たなら、おまえさん確実にあの世に逝ってっからよ」
主はカラカラと笑った。東の空が、ようやく白けてきた。

1 2 3 4 5 6