小説

『襲名』坂井千秋(『庭』)

 ある日、兄の部屋を掃除していると、見慣れない湯呑みが出てきた。形は歪で、所々が欠けている。明らかに素人の作品だ。それは父の作品でも私の作品でもなかった。兄の作品だと私には分かった。兄の技術は全く向上していなかった。だがその時の私は喜びに満ち溢れた。兄は陶芸をやめていない。カビ臭い散らかった部屋の窓から一筋の光が差し込むのを感じた。
 兄の帰りを待った。その日、明け方近くなって引き戸が開かれる音が聞こえた。階下に降りると、兄はキッチンで水道の水を呷っていた。
「兄さん」
 兄の背中に声をかける。嬉しさから、私の声は震えていたかもしれない。兄は億劫そうに振り返った。暗い電灯の下でも、顔色が悪いのが分かった。兄の顔は病人のようだった。
「兄さん、これ」
 右手に持った湯呑みをリビングのテーブルの上に置いた。ゴトリ、という鈍い音が妙な存在感を放った。力のない目がそれを捉えた。不気味な輝きが兄の瞳の中に宿ったように見えた。「どうして」と掠れた声で兄は言った。そのあとも何か言っていたかもしれないが、私の耳には聴き取ることができなかった。私はただ身から溢れる喜びを兄にどうやって伝えようかと、そればかり考えていた。
 兄はゆっくりとした動作でキッチンを出ると、どこか掴まるところを探しているような足取りで私との距離を詰めた。兄の目は私ではなく、兄の作った湯呑みに注がれていた。兄の口はパクパクと開閉を繰り返した。空気の洩れるような音がそこから聞こえた。
「こんなもの」
 兄はそう言ったようだった。目の前の湯呑みを引っ掴むと、それを高々と掲げた。
「こんなもの」
 今度ははっきりとそう聞こえた。稲光のような激しい音とともに、「こんなもの」は床の上で砕け散った。肩で息をしながら、兄はリビングを出ていった。私は玄関から箒を持ってきて床を掃除した。割れた破片のいくつかに赤黒い液体が付着していた。欠けた部分で指を切ったのだろうか。私は血の付いた破片を一つつまみ上げ、舌の先で掬い取るように舐めた。苦い、挫折の味がした。

 記者会見が終わると、父は兄を誘い、小さな居酒屋に入った。父の行きつけの店のようで、店員となにやら親しげにやり取りをしている。父は日本酒を注文し、兄にも同じものを飲むように勧めた。兄は恭しく杯を受け取った。店にはそれなりに客が入っていたが、不思議とあまり騒がしくなかった。
「一年になるな」
 酒を一口舐めると、徐に父は言った。人間国宝の顔はこの頃一段と皺が深くなったように思える。
「一年前は」
 遠い昔を思い出すような目で父は言う。「俺の跡を継ぐのは、朔(さく)だと思っていた」
 透き通った酒の面に視線を落とし、兄はただ「えぇ」とだけ言った。

1 2 3 4