小説

『襲名』坂井千秋(『庭』)

 兄は中高と陸上部に所属した。身体能力も優れていた兄は、花形のスプリンターだった。記録会は兄の独擅場だった。ピストルの音は兄の耳にしか聞こえていないかのように思われた。兄の走る姿はひとつの芸術品だった。流線型の光がゴールテープを切ると、私は誰よりも大きな歓声を上げた。感動や興奮は自分で生み出すものではなく、兄から与えられるものだった。
 私は兄を尊敬していた。勝負はもう、生まれた時からついているのだ。私の中に兄に勝るものはなくていい。兄の弟であることだけが、私を私たらしめる。兄の影であることが、私の支えだった。
 たったひとつだけ、兄が私より劣っているものがあった。あろうことか、それは陶芸だったのである。幼い頃から、父は私たち兄弟に厳しく指導をした。私たちのうちのどちらかを跡継ぎにしようと考えていたのだろう。父は私たちを叱ることはあっても、褒めることは決してしなかった。それが父の流儀であった。父は私たちを「無能」と罵った。その言葉は兄には相応しくないと私は思った。兄自身も恐らくそう感じていたことと思う。
 父の指導方針は兄には合っていなかった。父が私たちに罵声を浴びせかける度に、兄の手元は乱れた。それを見てまた怒鳴る。土がよれる。それは良い循環であるとは思えなかった。私は淡々と作業を続けた。父の罵りは私にはまるで響かなかった。ただ、謂れもない言葉の暴力を受ける兄が不憫で仕方がなかった。
 小学校三年生の時、私の作品が市のジュニア部門で入賞した。茶碗か湯呑みだったと思うが、どんな作品で何が評価されたのかは忘れてしまった。普段は気難しい父が、その時は別人のように笑顔だったのを微かに覚えている。同じコンテストに兄も応募していたが、兄の作品は選考を通らなかった。私は何かが間違っていると感じた。悔しさを抑え喜んでくれる兄の顔は醜かった。入賞した作品は後日返された。手が滑ったふりをして、床に落として割った。
 中学に上がり、陸上部に入部した兄を父は快く思わなかった。修行の時間が減ってしまうと考えたのだろう。だが兄は陶芸をやめなかった。遅くまで練習をして家に帰ってからも、兄は必ず土に触った。兄のそういう努力を見ると、私は胸が苦しくなった。これは私の愛する兄ではないと思った。自分の両手を切断すれば、私が陶芸を続けられなくなればよいのではないかと考えた。しかしそれでは、プライドの高い兄は決して喜ばないだろう。私のリタイヤという形ではなく、兄自身の技術が私を上回らなければならない。私としても、これまで兄が守ってきてくれた私の身体を自分で傷つける気にはなれなかった。私の身体は兄の身体だった。
 兄に恋人ができた。大学二年の頃だ。相手の女はやけに声のでかい女で、兄には相応しくないと感じた。兄自身もそう思っていたのだろう。兄は一度としてこの女を父や母に紹介することはなかった。その頃から、兄は家に帰らなくなった。陶芸の修行もしなくなった。その女のところに行っていたのかもしれないし、別の女と遊んでいたのかもしれない。兄は異性からも好かれやすい性質だった。
 大学を卒業しても、兄は働くことをしなかった。昼を過ぎてから起き出し、何処へともなく出かけた。夜に帰ってくることもあったし、帰らない日も多かった。兄が帰らなくても、父と母は何も言わなかった。兄の話題が出なくなると、兄の存在そのものが消えていくようだった。

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