小説

『もしわたしがいなくなったら』立原夏冬(『雨月物語』より「浅茅が宿」)

「ごめんなさい、だるくて…。少し寝てたの。」
 桜はそう言うと、真一のカバンを預かり、背後に回ってスーツのジャケットを脱がせた。
「真一さん、お風呂入るでしょう。その間にご飯の準備をしておきますから。」
 桜は真一が脱いだスラックスやベルトも受け取り、いつものように、奥の部屋に持っていく。その途中、振り返って、
「真一さん、手洗いは念入りにしてくださいね。あなただけは、病気に…、気を付けてね。」
 そう言うと、桜は電気が消えたままの暗い家の奥に消えていった。

 真一にとって、3日ぶりの家の風呂だ。ゆっくり入ろうと思ったが、入浴は早々に切り上げてしまった。風呂の湯が妙に冷たい気がしたからだ。風呂場から声をかけ、桜に給湯器のパネルを見てもらうが、湯温に異常はない。頭をひねりつつも、真一は洗面所に揃えて置いてあった寝間着に着替え、食卓についた。テーブルの上には、桜の作った夕飯がすでに用意されている。
「真一さん、ワインを買ってきてあるのですけど、飲みます?」
 真一がうなずくと、桜は赤ワインの入ったグラスを台所から運んできて、真一の前に置いた。

 夕飯を食べながら、真一は出張中にあったことを話した。桜は黙ってそれを聞いていたが、無遠慮な後輩のことに話が差し掛かったところで、急に暗い顔になった。
「ねえ、真一さん、本当に私と結婚して良かった?私には借金もあるし、あなたに迷惑をかけてないかしら。もし、私が急に死ぬようなことがあったら…。」
「迷惑なんてことはないよ。もし死んだらなんて、あまり考えないほうがいい。」
「でも、私が先に死んで、あなたに借金だけ残すなんてことになったら、心苦しくて…。ねえ、やっぱり私も働きに出ていたほうが良かったんじゃないかしら。」
「それはしなくていい、って前も言ったよね。」
 桜の言葉を遮るように、真一は言った。桜が黙りこむと、真一は言葉をつづけた。
「君は体もそんなに強くないんだから、お義母さんが亡くなった後、何か月か体調を崩していたじゃないか。僕の稼ぎで借金も返しながら十分に生活できているのだから、君は無理して働きに出なくていいんだよ。わかった?いいね。」
 その時、真一は桜が夕飯にほとんど手を付けていないことに気が付いた。
「全然食べてないじゃないか。食欲がないのか?ほら、やっぱり、無理しちゃだめだよ。体調でも悪いのかい?」
「いえ、大丈夫よ…。うん、ちょっと食欲がないだけ。あなたが帰ってくるからって作りすぎちゃったみたい。ごめんね、この話はもうしないわ。」

 その後も、話題を変えて会話は続いたが、今日は何を話しても、最後にはどうしても暗い話になってしまう。相変わらず桜は食事に手を付けない。真一は今日の夕飯がどうも味がしないように感じた。桜は料理が得意なはずだが、今日の出来はいまいちだ。出張が終わって、家で安らげることを期待していたのに、その通りにならないことに、真一は次第にイライラしてきた。頭もなんだか重たく感じる。真一は箸を置き、気になっていたことを尋ねた。

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