小説

『もしわたしがいなくなったら』立原夏冬(『雨月物語』より「浅茅が宿」)

 真一は助手席の窓から街を眺めた。日中だというのに、歩いている人はまばらにしかいない。昨年から続く新種の感染症の流行で、不要不急の外出自粛要請が出ているからだろう。街を歩いている人も、ほとんど全員がマスクをつけている。いったい、いつになったらこの状況が終わるのだろう。そんなことを考えていると、運転席の後輩が話しかけてきた。
「いつになったら収まるんすかね。俺らくらいの年齢でも、悪化したら数日で死ぬことがあるっていうじゃないすか。病院に運ばれて、家族にも会えないで、そのまま死んじゃうこともあるんでしょ?まじで嫌っすよね。こんな時に出張とかマジ勘弁すよ。武藤さん結婚してるし、3日も家を留守にして大丈夫なんすか?」
 そこまで言うと、にやりと笑って付け加えた。
「それに、武藤さんの奥さん美人じゃないすか。そっちの方も心配っすよね。」
 後輩の無遠慮な言葉に、苦笑いしながら真一は答えた。
「うちのは地味なやつだし、浮気できるタイプじゃないよ。」
「照れないでくださいよ。前見せてもらった写真、マジでいい感じでしたよ。ところで、あの話って本当すか?奥さんの借金を武藤さんが肩代わりしたって話、惚れた女のためにはってやつすか。」
「そこまで大した話じゃないよ。うちの妻は母子家庭で育ったんだけど、その母親が病気になってね。治療にお金がかかった上、看病のために仕事も辞めなきゃいけなくなったんだ。俺と結婚する前の話だけど、その時の借金がまだ残っているから、今は俺の給料から返済してる。でも、借金の名義自体は妻のままだし、肩代わりとまでは言えないんじゃないかな。」
「まじっすか、武藤さんがいなかったら奥さん、人生ハードモードじゃないすか、いい話っすね。武藤さん、マジ聖人だわー。」

 この出張の間、ずっと一緒にいたからか、気を許して喋りすぎたかもしれない。率先して運転をするなど、後輩としては気が利くが、遠慮なくプライベートにも踏み込んでくるところは少し苦手だ。真一は後部座席に手を伸ばしてカバンを取ると、中身を気にするふりをして、後輩との話を打ち切った。カバンの中には、ライトブルーの缶に入ったお菓子が入っている。真一の妻、桜へのお土産に買ったものだ。出張は今日で最終日だが、真一には少し気がかりなことがある。この出張の間、桜から一度も連絡が来なかったことだ。
 真一から特に連絡はしていなかったので、桜からも連絡することがなかっただけかもしれない。少し気になったので、ついさっき、今日は家で夕飯を食べるというメールを送ってみたが、まだ返事は来ていない。こんな時期なだけに少し不安にはなる。真一は桜へのお土産を入れたカバンを強く握りしめた。

 真一が家の前に着いた頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。夕飯の時間だし、桜はきっと帰りを待っているだろう。真一は玄関のドアを開けて声をかけた。
「ただいま。…あれ?」
 家の中はなぜか電気もつけず真っ暗だ。真一は手探りで玄関の灯りをつける。すると、暗闇から、桜が姿を現した。心なしか頬がこけ、その顔はいつもより青白く見えた。

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